水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年2月26日木曜日

お勧め動画です

見られない方もいらっしゃるかもしれませんが、ご容赦ください。音がきけるPCでどうぞ。


福田元首相が韓国に行ったこの時に、水曜デモが始まりました。河野談話は、この発言に基づくものですね。
売国って、なんなんでしょうね。言葉がアナクロすぎますね。感性を疑いますね。

2009年2月22日日曜日

北海道札幌の水曜行動

北海道の札幌市で、お一人で水曜デモを始めた方がいるそうです。
札幌市は、去年の11月に市議会で意見書を可決させました。

この方のお話を聞いて改めて、たとえこの問題が解決したとしても、日本軍「慰安婦」問題を語り続けていきたいと思いました。忘れまじ、日本軍「慰安婦」制度!だから、教科書に記載して、歴史教育だけではなく性教育、人権教育、平和教育(そんなの学校にあるのかな?)として教え続けていかなくては。

ソウルよりは、気温は高いでしょうが、雪かきのあとの雪の塊を見ると、ぐっぐっと、寒さが身にしみます。
以下、北海道の知人からのメールをご紹介します。
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K・Sさんがひとりで水曜デモを始めました。

その勇気と自然体に感動しています。

場所は、札幌市東区北9条東7丁目ファイターズ通り、ギャラリー茶門の前です。

 24()から始めました。休む日もあるけど一応毎週水曜日。

  昨日は、氷点下五度、紙を持って立っていると、指先がすぐに悴んできます。

 丸椅子を置いて、立っていたり座っていたり。

  時間は、昼休みの1215分から30分間。

 信号待ちの車や買い物帰りの人々が、何をやっているのだろうと見ていきます。たまには、その人達と会話も生まれます。

 ソウルのハルモニたちに連帯の気持ちを何かをすることで表現したかったとのこと。

  余り肩を張らずに、やれるときにはやる。やめたくなったらいつでもやめるの心境ではじめたそうです。

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2009年2月15日日曜日

海南島で日本軍がしたこと
















海南島は、中国の最南、ベトナムのトンキン湾に面する大きな島です。面積3万4千平方km、日本の九州ほどの大きさで、黎族や苗族などが住んでいます。1939年2月日本海軍は海南島を占領し、その翌3月に、海口の海軍情報部長は、 台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼しました。日本外務省・日本海軍・日 本陸軍の三省連絡会議の決定にもとづくものでした。
 台湾拓殖会社は、5月に海口に「海軍慰安所」を設置、その後長期におよぶ占領の間、日本軍は海南島各地に多数の「慰安所」を設置してゆきました。
「慰安所」には、日本人女性、占領地の中国人女性、植民地の台湾人や朝鮮人女性を連行してきましたが、他に海南島現地の女性たちを、強姦、輪姦、拉致、監禁し「慰安婦」として性奴隷としていました。
現在、名前の知ることのできる朝鮮人女性は、朴来順さん、金玉珠さん、李玉今さんです。
朴来順さん(1942年2月 海口で)

朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ「慰安所」にいれられました。そして、43年に1月に三亜の紅沙の「慰安所」に移されました。
そこは田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく炭鉱を経営していた石原産業関係者も来たといいます。台湾人と朝鮮人が50数人いたそうです。日本敗戦後、故郷に帰ろうとせず三亜北方の保亭で、道路工事などに従事されました。「ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ」と、1995年、韓国と中国が国交を樹立してから3年後に、保亭の病院でなくなりました。79歳でした。

                               中山路にあった「慰安所」のひとつ

 金玉珠さん(1923年生)は、日本の敗戦後、働かされていた「えびす」という「慰安所」で、船が出るのを待って、1946年9月に日本を経て釜山に戻ったそうです。
李玉今さん(1914年生)は、日本に12年間いた後、広東を経て、日本軍と一緒に海南島に行ったそうです。他の女性たちと一緒にトラックに乗って、いなかの日本軍基地を回ったそうです。1945年8月15日、日本基地に行ったら日本兵は一人もいなくなりました。そして、翌年2月に海南島から船に乗り日本を経て朝鮮に帰られました。
海口の慰安所には、朝鮮人朴来順さん、金玉珠さんも入れられていました。金玉珠さんは、「慰安所」から、時計台が見えたと証言しています。  

 海南島では、女性を「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的性的犯罪がおこなわれました。少女の時、日本軍人に性奴隷とされた海南島の黎族と苗族の女性8人、林亜金さん、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんが名乗りを上げ、日本政府に提訴しています。
 名乗りを上げたうちの1人の方は、16歳のとき、日本軍に徴用され「戦地後勤服務隊」に入れられ作業のとき日本兵に強姦されました。昼は水運びや洗濯をさせられ、夜は何人もの日本兵に強姦されるという日々が続きました。嫌がると顔を殴られたり、谷へ突き落とされたりしました。そのため、左骨盤が骨折、今でも脊椎も骨盤も左へ変形したままです。拷問によって死の恐怖を焼き付けられ、父母に暴行を加えて追い詰められ、さらに妊娠した少女を惨殺する場面を見せられた体験から、現在もPTSDに苦しめられていらっしゃいます。
 もう1人の方は、18歳のとき、日本兵に捕まり、駐屯地に連行され、小さな部屋に入れられて、毎晩複数の日本兵に強姦されました。1年間ほど監禁所に閉じ込められて抵抗できず、いつ殺されるか、自分が生きているのか死んでいるのかわからない生活でした。他の3人の娘たちとは別々に閉じ込められましたが、下半身から膿が流れ出るようになると4人とも解放されましたが、その3人も次々と死んでいきました。やっと帰った村でしたが、父親は死んでいました。母親の看病で元気になりましたが、再び捕らえられ監禁所で強姦の日々が続きました。日本の敗戦が色濃くなり、日本兵が突然いなくなると、彼女は郷里にもどったが、村は日本軍に焼き払われて、母も兄も死んでいました。日本兵に縛られ、踏みつけられたために、右の胸と背中の痛みはとれず、胸部は変形したままです。すべての男が恐ろしく、心を開いて結婚した優しい夫とも、最初は夜一緒に休むことができなかったそうです。しかし、夫を失った後、また日本兵が追いかけてくる悪夢を見て叫ぶことがあり、よく眠れないそうです。フラッシュバックで、日本兵に命令されたり、押さえつけられているようになり、急に不安になったり、力が抜け、涙が出たり、頭痛がしたり、吐き気がして吐くこともあるそうです。



8人の方は、日本政府を被告として「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、2001年7月に訴状を日本の東京地方裁判所に提訴しました。しかし、2003年に譚玉蓮さんが、2004年には黄玉鳳さんが亡くなられました。
 2006年8月30日、東京地方裁判所は、「原告らの請求は理由がない」として「棄却」するという判決を出しました。原告たちは、ただちに控訴しました。
「海南島戦時性暴力被害訴訟」は、この3月26日に東京高裁で、控訴審判決がでます。現在、日本でおこなわれた一連の「従軍慰安婦」裁判では、唯一継続中のものです。
日本軍は、海南島占領の間、住民の大量虐殺や「朝鮮村」の「朝鮮報国隊」の虐殺、略奪などをおこなっています。詳しくは、おすすめサイト“海南島近現代史研究会”をご参照ください。

2009年2月10日火曜日

大阪市会で、意見書を可決させよう!2・26出発集会

また、新たな潮流です!
大阪市で、市会から、政府への意見書を提出させる請願運動が始まります。
以下にあります京田辺市は、3月議会を目指しています。
関東地区では川崎市、関西地区では堺市、箕面市、吹田市などがすでに運動を
はじめています。
もし、これを見ておられる方が、これらの自治体に住んでいらっしゃらなくても
請願署名に署名することは可能です。
また、ご自分の自治体でも市町村議会に対して
意見書採択をもとめる請願運動はできるのです。
大きな湖に投げた小石が創ったさざ波が、ひたひたと広がってゆくように
この問題に対する私たちの思いが、日本中に広がってゆくことでしょう。


2月11日の兵庫県西宮での水曜デモのチラシの一部を
転載します。

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大阪市会で
日本軍「慰安婦」問題の解決を求める
意見書を可決させよう!
2・26出発集会

DVD上映:「決して忘れてはならない―彼女たちの話」
講演: 石川康宏さん(神戸女学院大学教授)
「今なぜ「慰安婦」問題が大事か?」
講演: 戸塚悦朗さん(龍谷大学大学院教授)
「真の解決のための立法に向けて」
日時:2009年2月26日(木)6時半~
場所:ドーンセンター大会議室(地下鉄谷町線天満橋駅)
資料代:500円
連絡先06-6768-5360( 吉田 )090-8365-0352( 方 )

 日本軍「慰安婦」被害者として金学順(キムハクスン)さんが名乗り出られて、今年で18年になります。この18年間、多くの被害者が名乗り出られ裁判などを闘ってこられましたが、日本の裁判所は全てを敗訴にしました。そして、日本政府はいまだに公式謝罪も賠償も責任者処罰もせず、歴史教科書からも「慰安婦」問題の記述を消し去りました。
 このような日本政府の姿勢は、国際的に強い批判を浴びています。一昨年から昨年にかけて、アメリカ、オランダ、カナダ,EU、韓国、台湾で、「慰安婦」問題について日本政府に公式謝罪と賠償、教育などを求める議会決議が出されました。
 日本国内でも、昨年3月の宝塚市議会、6月の清瀬市議会、11月の札幌市議会と、地方自治体から政府に意見書があげられています。
 そして、現在も、堺市、箕面市、吹田市、京田辺市、川崎市など、多くの自治体で意見書を政府に提出するための運動が進められています。
大阪市では2月26日に出発集会を開催します。平和のために、私たちが今できることを、はじめようではありませんか!

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2009年2月7日土曜日

「戦争と女性の人権博物館」建設のための懇談会in関西

知人より以下の呼びかけがありました。


**案内*****

今から5年前、日本軍「慰安婦」被害者たちの願いから始まった、「慰安婦」問題を歴史に残し、戦争と女性への暴力を終わらせるための「戦争と女性の人権博物館」実現は、私たちみんなの願いになりました。
 この間大阪では一昨年の韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)メンバーを迎えての支援集会を皮切りに、ハルモニをお招きしての各地での証言集会、宋神道さんの映画「オレの心は負けていない」上映会や水曜集会などでのカンパ呼びかけ、そして昨年は李政美さんらによるチャリティーコンサートも開催されました。残念ながら昨年3月の起工式は経済的な問題に加え、韓国国内で「慰安婦」問題を不名誉な歴史として否定する人たちの出現により、見送られてしまいました。
 今年は3・8世界女性デーの日に起工式が行われることが決定、現在韓国では準備に追われているようです。
 来る2月7日には東京で「戦争と女性のための人権博物館」日本委員会の発足集会がもたれます。ついてはこの場に参加される挺対協尹美香常任代表と金東姫担当者、さらに日本建設委員長としてこの間、日本での取り組みを中心となって担ってこられた梁澄子さんを大阪にお招きして懇談会を持つことになりました。
 この間、「慰安婦」問題解決のため奔走された皆さん、「博物館」建設に協力を惜しまなかった皆様にはぜひ参加していただき、起工式に向けた準備状況や、「慰安婦」問題解決に向けた大阪での取り組み状況などについて意見交換ができれば幸いです。
 皆さんの参加をお待ちしています。
日時:2009年2月9日(月)18時30分~受付 19時開始
場所:エルおおさか (504号室)
参加費:¥500

連絡先:「戦争と女性の人権博物館」日本委員会

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悔しいことに、私的な事情で参加できませんが、参加された方のご報告をお待ちしています。
尹美香常任代表とは、アジア連帯会議でお会いして、阪神連絡会として、博物館への寄付金をお渡しすることができました。偶然にヨンッティでトンガビとわかり(勝手に)親近感を覚えた次第です。
再会を喜びたかったのですが、、、。どなたか覚えていらっしゃったらよろしくお伝えください。