水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年8月18日火曜日

8・12世界連帯同時水曜集会



この日は、第2水曜日、阪急西宮北口駅で、日本軍「慰安婦」被害女性と共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会の水曜デモがある日です。
韓国では、日本の植民地からの解放の日、8月15日(光復節)は、特別な日です。それを記念して、世界中で同時に水曜集会をしようと、挺対協からの呼びかけに、私たちも連帯しました。
『8・12世界同時水曜集会』を主催するのは、日本軍性奴隷問題の解決を求める会in大阪
『水曜デモin西宮』を主催するのは、日本軍「慰安婦」被害女性と共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会です。
それぞれが、ここ西宮で合流します。関西地域―大阪、堺、京都、奈良、神戸、姫路などなどから、総勢40名以上の方々が、集まりました。
リレートークアピール、「京義線に乗って」のダンス、歌、「河内音頭水曜デモバージョン」で、盛り上がりました。最後に今日の挺対協の声明文を読み上げ、全員で、シュプレヒコールを上げて終わりました。

参加して下さった方々の報告です。
ありがとうございました。

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<「世界同時水曜デモin西宮」元気に、和やかに開催>

 812日(水)挺対協の呼びかけでとりくまれた「世界同時水曜デモ」は、阪神間では第2水曜日の西宮水曜デモの日に当たるため、西宮で集中して開催することになりました。新長田の水曜デモしか参加しない、ズボラな私ですが、この日はぜひともと思い駆けつけたのですが、電車の連絡の関係で、開催時間の6時半ちょうどになってしましました。会場である阪急西宮北口駅も(震災後との事)様変わりしていて、迷いながら会場へ向かうと、なにやらマイクの怒声が聞こえるではありませんか。会場への連絡通路(2階になっています)から下を覗いてみると、日の○と旭○旗を振り回している5人ほどのグループでした。どうやら、「ZT会」の連中らしいです。阪神連絡会も「認知」されたというべきか。(彼らは7時に早々に撤退していました)

 会場では、なんと天使の羽ならぬ、蝶々の羽を背中に背負った楽しげな人達が集っています。そんな面白いことをするとはきいてへんぞ、と思いながら参加。2005年の「世界同時水曜デモ」の時にソウルの会場でもらった、蝶々の小さなプラカードを(大事に持ちすぎていたため、ヘロヘロになってます)とりだして、振り回していました。会場は、真ん中に花壇のある広い場所で、会場を囲む円形のフェンスには、横断幕やハルモニたちの写真等でわかりやすく、装飾されていました。参加者はかなり多く、MLでの報告によると40人くらいという人や、70人はいたという人もありましたので、多分多い方が正しいのでしょう。

 内容は「京義線に乗って」にあわせた律動や、各地のメンバーの思いのこもったアピールなどが続き、和やかに進行していきました。最後に「河内音頭水曜デモバージョン」とそれにあわせた「盆踊り」でまとめました。韓国へ送るための記念写真をとって、時間のある人は「韓国での水曜デモ・『日本の有名な劇団』として参加」報告会へ。

 1日も早く、保障と名誉回復がなされることを祈りながら、釜山へ行かなければならないため会場を後にしました。(今から韓国の釜山へ行くのではありません、という事を付け加えます)







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西宮北口駅アクタ前の2階のロータリーでの

水曜デモは、6時半~745分まで、50人を超える参加者で

にぎやかにとりくみました。(Oさんが数えたら70人以上だったそうです。)

6時からはロータリーの下の駐車スペースのような所で

日の◎3本、旭◎旗2本、ZT会ののぼり2本を持って

5人の方々が集まり、「「慰安婦」は売春婦だ」と繰り返し叫んだり、

いろいろマイクで言ってましたが、7時前には止めて帰ったようです。

バイクで大阪から来たらしいとのことでした。

私たちの水曜デモは、西宮始まって以来の大人数で、

背中につけた蝶々も人目をひき、ビラもよくとってくれました。

皆さんのアピールの合間をぬって7時から「京義線に乗って」を踊り、

7時半からは「河内音頭水曜デモバージョン」を踊りました。

河内音頭ではロータリーの真ん中の歌壇をぐるっと大きく取り囲んで

20人以上の踊りの輪ができ、ほんとに盆踊りになりました。

8時からの平和紀行報告会にも40人もきてくださり、

資料も足りず、立ったり座り込んだりしていただいて

申し訳ありませんでした。  
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2009年7月27日月曜日

水曜デモinソウル

2009年7月22日(水) 第875回水曜集会 「劇団水曜日」主幹 演劇<セナの願い>公演 30分
在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇。
事前の雨の予報は見事に外れ、天気は晴れ。
蒸し暑い中、挺身隊問題対策協議会が主催する875回水曜集会は正午キッカリに始まりました。

想像していたより明るい、元気でノリのいい挨拶と「岩のように」の歌、尹美香代表のメッセージ、“18年間の集会で初めてのことがありました。日本大使館の窓が数分間開けられ、職員らしきひとがのぞいていました。”と。
私は、初めての参加ですので、“アー開いてるわ。”くらいにしか思ってなかったのですが、代表の言葉に“おおっ!”と、感激しました。そんなに「劇団水曜日」は有名なのか?!
いえいえ、多分、日食を見ていて、窓を閉め忘れたんだと思いますが、、、。

劇団の団長の挨拶と団員が紹介され、主人公のセナが子どもたちにいじめられるシーンから劇ははじまりました。
日本では今でも朝鮮人(在日コリアン)に対する差別意識は根強くその差別意識は残念なことに子どもたちの意識の中にも居座り続けています。そんな現実とハルモニたちの受けた屈辱の体験は半世紀以上経つ現在と繋がっています。

以下は、劇を観た友人の感想と報告です。

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劇は導入部の重苦しい雰囲気とは一変し、コミカルなミュージカル仕立てに・・・。
観劇していたハルモニを始め、多くの観客は突然の変貌に面食らい、目を白黒させながらも、湧き出る笑いがどよめいていた。
コミカルな動きとは裏腹に歌詞は ♪ どうして どう~して! 誰のものでもない地球・・・中略・・・愛と正義が平和をつくる みんなのものだよ この地球 ♪ と、しっかりとメッセージが込められていた。
続いて、右傾化する日本の今の現状がますます差別を助長させていることをそして戦争が「慰安婦」問題を今後も引き起こす原因であるある事を受けて、コミカルな踊りに乗せ、その裏で糸引くアメリカの存在を痛烈に批判していた。
ハルモニの体験を歌にし、「慰安婦」問題を訴えた。今までの興奮は一変、また重苦しい雰囲気が漂う。胸つまらせ、息苦しいほどの生々しい証言。
そしてハルモニは「二度とこんなことを繰り返させないために、みなさんに真実を知ってもらいたいと、わたしは今日ここに来ました。わたしが今日まで生きて来たのは、みなさんにこのことをお話しするためだったんだと思います。どうか、日本に住んでいる皆さんが、日本政府を動かしてください。」と日本の支援者に期待した。
日本で活動の成果が見えはじめた・・・。
そのキッカケが[宝塚市議会での日本軍「慰安婦」問題の解決を求める意見書可決]でした。
その後、各地での[意見書可決]の朗報が次々ともたらされたことを紹介。取り組み中の活動も紹介と続き、みんなでシュプレヒコールをした。
最後に♪アリランのメロディにあわせて全員で踊り、最後は全員手をつないで一列になり、お辞儀をして演劇は終演した。途中、ハルモニが感激して踊りに参加。大いに盛り上がった。
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以下に、韓国のマスコミの報道を添付します。
訳していただいた記事と写真です。

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[京郷新聞 2009-07-22 18:27] 「慰安婦の真実の伝播、放棄しない」 日本の劇団、挺対協の水曜集会で韓国語の演劇
写真 ▲ 日本の有名な「劇団水曜日」が、22日ソウル鍾路区の駐韓日本大使館前で開かれた従軍慰安婦[被害]ハルモニ水曜集会で公演している。(金キナム記者) 22 日昼12時、ソウルの鍾路区中学洞の駐韓日本大使館の前。ポリスラインの前に、空色の布で簡易演劇舞台が設けられた。劇が始まると、俳優5名が一人の女性 に向かって、「帰れ、朝鮮に帰れ」と叫んだ。黒い色のスカートと白いチョゴリを身につけた女性は、しくしく泣きながら、「アリラン」を歌った。 日本の「劇団水曜日」が、この日挺身隊問題対策協議会が主催した875回水曜集会の現場で、演劇<セナの願い>を公演した。在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇だ。 俳 優たちの韓国語は未熟だったが、演技は真剣だった。路上演劇は、30分余り行われ、俳優15名の額には汗の雫が溜まった。俳優たちは、演劇の最後に皆舞台 に出てきて、「金学順(キム・ハクスン)、裴奉奇(ペ・ポンギ)、姜徳景(カン・ドッキョン)…李順德(イ・スンドク)」と叫んだ。従軍「慰安婦」被害] ハルモニ31人の名前だ。 観客は、「慰安婦」[被害]ハルモニたちだった。車椅子に座ったハルモニたちは、真剣に演劇を観覧した。舞台からアリランが流れてくると、静かに歌いもした。 「 劇団 水曜日」は、2004年日本の兵庫県宝塚市で韓国伝統舞踊を公演した朝鮮高等学校の女学生たちに、一人の日本の女性が「朝鮮に帰れ」という差別的暴言をした事件を契機に創立された。 劇団の名前も水曜集会から取った。徳田幸博団長(66)は、「二月間猛練習して、今日の舞台に立った」、「韓国語を全く知らない俳優が半分ぐらいになるのに、皆熱心にセリフを覚えた」と語った。 劇団側は、公演後に発表した声明書を通して、「日本の地で、一人りでも多くの人たちに真実を伝えるよう、あきらめないで闘う」と明らかにした。彼らは、日本市民が集めた寄付約31万円(400万ウォン余り)を挺対協に伝達した。 
(カン・ビョン ハン記者)
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[聯合ニュース 2009-07-22 14:24] 第875回水曜デモ (ソウル=聯合ニュース) 朴ジホ記者= 22日の午後、ソウルの中学洞の日本大使館前で開かれた「日本軍『慰安婦』問題解決のための第875回水曜デモ」で、ハルモニたちが日本からきた劇団水曜日の公演を見守っている。

2009年7月2日木曜日

北千島にも軍の慰安所があった 過去言い繕ってはだめ 朝鮮半島から強制的に

北海道の方が、以下の内容の新聞記事を送って下さいました。

被害者の方の声だけでなく、加害者の声を聞くことは、とても大切だと思います。

それで、私が聞いた、日本兵の証言(話)を思い出しました。

私も以前、ある師団の戦友会に参加する機会がありました。

中国で、千人切りをしたこと、女性を強姦してその後殺したこと、妊婦も殺したことを私に話して下さった老人の無表情の顔、目つきが忘れられません。

そしてそれを聞いて、また別の方が“それは、俺はできなかった。女の人がいることろ(多分慰安所でしょう)があったから”といわれました。その慰安所は“上官が独り占めしていて好きなときに行けなかった。だから兵隊たちは、中国人に対して強姦や殺人を犯しても何も言われなかった、悪いことではなかった”と言われました。

また別の機会に、南京虐殺を行なった師団に参加していた方にも、お話を聞きました。南京に行くまでの道沿いにある村々はすべて全滅させて行ったそうです。“今、問題になってるやろ。あの時は、悪いことではなかった。中国人は、殺してもよかった。それが仕事やったから。上官に言われたら、仕事やから、しないといけなかったんだ”と言われました。

目の前の一兵卒に、加害責任を言っても仕方ありません。でも、加害の事実をもっと後世にきちんと伝えるべき責任はあるのではないでしょうか?悪いことをしたのだと、アジアの国々に謝罪できるよう当事者が我々に教えるべきではないでしょうか?町ですれ違う、隣に住んでいるおじいさんが加害の過去、戦争の体験を持ちながら、今の日本社会をつくってきたことを知ると、同胞として後世に生きている私たちが、私たちの手で、歴史の責任の解決をしていかねばならないと強く思います。

以下、北海道新聞の記事です。

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大竹三郎さん=87歳、札幌市在住

 兵隊ばかりの北の島にも軍の慰安所があり、「朝鮮半島出身の若い女性が朝から晩まで、強制的に兵たちの相手をさせられていた」と、大竹三郎さん(87)=札幌市=は証言する。あからさまには話しにくい「性」が絡む従軍慰安婦問題。大竹さんは「苦しい思いをした人がいて、知る人も多い。過去を言い繕うことが、間違った道に進ませる」と口を開いた。

 この慰安所は、一九四三年(昭和十八年)、北千島の幌筵(パラムシル)島にあった。外出許可が出て「慰安所許可証」が交付された。慰安所は軍の施設だった。

 大竹さんは旧満州(現中国東北地方)、アッツ島、キスカ島と転戦。五年近い軍隊生活で死のふちをさ迷った。「生きている証しを、女性を抱くことで得たかったのかもしれない」と言う。宿舎で酒を飲み、一キロほど離れた慰安所を訪ねた。

 バラックが二棟並び、奥が将校用、手前が下士官と兵隊用。長屋の二つの入り口には、兵が整然と列をなしていた。時間は一人三十分で、巻き脚半を取り、軍靴のひもをゆるめて順番を待った。

 部屋にいた女性は、言葉などで朝鮮半島の出身と分かった。名は花子、十八歳と明かした。軍の売店で買ったアンパンを食べさせ、残りのパンを袋ごと与えると、女性は突然、布団をはねのけ、寝間着の前を開いた。

 彼女は「見て」と性器を指し示した。そこは、裂けたような跡が、いく筋にもなって盛り上がり、無残な傷あととなっていた。酔いも好奇心も性欲も消し飛び、いたたまれなさと行き場のない怒りに襲われ、部屋を飛び出した。廊下に出てほかの部屋のドアを開け、やめさせようと大声で怒鳴り、戦友に抑えられた。

 「少女のころ連れてこられ、いや応なしに日本兵の相手をさせられた。悲鳴とおえつをどれだけもらし、屈辱にまみれたことか」と話す大竹さんの顔が苦痛でゆがんだ。

2005/06/02()  北海道新聞 戦禍の記憶




2009年6月29日月曜日

6月29日京田辺市でも意見書可決!

昨年8月に地元での学習会から運動がはじまり、1月から請願署名を集め、3月議会に一度提出、京田辺市議会は6月議会中、25日の議会運営委員会で、3月議会で提出していた、日本軍「慰安婦」問題の早期解決を求める請願署名と陳情の趣旨を受けた意見書を、29日(月)の本会議に提出することを決めました。これを受けて29日の本会議で、全会派が署名し、全会一致で意見書は可決されました。

全国で、8市めの意見書可決です。

以下に、その文面をのせます。

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日本軍「慰安婦」問題について日本政府へ早期解決を求めるための意見書

 戦後64年たった今も、日本軍「慰安婦」問題について、被害女性からの謝罪と補償を求める訴えが続けられている。人間としての名誉と尊厳を著しく傷つけられた被害者の思いは筆舌に尽くしがたいものがある。 2007年7月にはアメリカ下院において「日本軍が女性を強制的に性奴隷にした」ことを公式に認め、謝罪するよう日本政府に求める決議が採択された。

 その後、カナダ、オランダ、EU議会でも採択され、2008年には、フィリピン、台湾、韓国でもあいついで同様の決議が採択された。さらに国連やILOなどの国際的な人権擁護機構からも繰り返し勧告や指摘がされている。

 被害女性たちは、今、80歳、90歳の高齢になっており、一日も早い解決が求められている。政府は、1993年の河野洋平官房長官(当時)の「お詫びと反省の気持ちを中し上げる。」という「談話」を誠実に踏襲し、日本軍「慰安婦」問題被害者の公式謝罪と補償を求める声に耳を傾け、早急に問題の解決を図るよう求めるものである。

 以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

平成21年6月29日

京田辺市議会議長 上田 登 

【提出先】衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣



2009年6月28日日曜日

6月17日第6回水曜デモin長田





















京都から、姫路から、約15名の方々が参加して下さいました。
ビラも250枚あっという間になくなり、少し早めでしたけれど、終了しました。
5月に亡くなられた、4人の被害女性の方々のご冥福をお祈りして黙祷をささげました。

キム・ジョンエハルモニ、ユン・ドゥリハルモニ、蘇寅嬌阿媽(スウ・エン・チャオアーマー)阿鳳阿媽(アー・ポウアーマー)、みなさんの遺志はわたしたちが受けつぎます。3市の意見書可決のニュースが間に合わなかったことが悔しいです。

以下は、韓国、台湾の被害女性を支援する団体からのニュースをまとめたものです。第6回目水曜デモのチラシにものせました。

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追悼
12月15日から5ヶ月間以上、つらい闘病生活をしてきたキム・ジョンエハルモニ(慶尚南道トンヨン居住)が、5月23日夜11時30分ごろに亡くなられました。(享年78歳)
うっ血性心臓病で呼吸困難と、ほとんどすべての臓器がきちんと機能せず
全身がぱんぱんに腫れたまま座って眠る苦痛の闘病生活を続けてきたハルモニ。
手を握って「生かしておくれ」と言っていた生きるための強い意志をついにあきらめられました。
賢明で頭がよく、ユーモアがあふれ、私たちをよく笑わせてくれたキム・ジョンエハルモニ。
これからはハルモニ語録を聞けなくなりました。 いつも国に面倒をかけてはいけないと言っていたハルモニ。そのため、病院もいかず病気を深刻にしたハルモニ。無理やりでも病院に連れて行けなかったのが、悔しく胸を打ちます。ハルモニを愛する娘息子がハルモニを胸に刻んで記憶します。
寂しがらず、この世の恨はすべて残して、安らかに逝ってください。
どうかそこで果たせなかった幸せを享受し、したかった勉強も思いっきりしてくれるよう祈ります。
ハルモニの冥福を祈ります。ハルモニが逝く道が寂しくないよう皆さんも祈ってください。
***ハルモニの人生***
-1921年 トンヨンで生まれる
-1940年 20歳の年に、網元で働いているところ強制的に拉致され、中国に連れて行かれ5年間「過酷な慰安婦」生活を強いられる
-1945年 南京から釜山へ汽車に乗って帰国した後、船に乗ってトンヨンに帰郷
-生計手段は工場・農作業・魚の行商など
-結婚はせず甥姪を育て一人で暮らす
-1993年 日本軍「慰安婦」被害者として政府に登録
-2009年5月23日夜11時30分ごろ 恨多い生涯を終える
*家族は報道を望まず。
5月28日、日本軍「慰安婦」被害者ユン・ドゥリハルモニが亡くなられました。(享年71歳)
故ユン・ドゥリハルモニは、1928年に釜山で生まれ、15歳の時に釜山派出所前を通った時に連行され、釜山ヨンドにある慰安所で「慰安婦」として苦しい日々を送らなければなりませんでした。
それこそ、家から近いところの慰安所にに閉じ込められなければならないという悲劇にあいました。
解放後、とても文無しでは帰れず、食堂で1年余り働き家に帰りましたが、困難な状況と慰安所生活によって心的・肉体的苦痛などで、再び辛い日々を送りました。
結局釜山を離れ、ソウルを経て鬱山(ウルサン)に落ち着いた後、これまで過ごしてきました。
ハルモニは生前に、「故郷は釜山だけど、慰安婦だった頃を思い出すから行きたくない」と話していました。人生をめちゃめちゃにし言い逃れをする日本に怒り、自分が被ったことを死んでも忘れないと言っていたハルモニは、日本政府の欺瞞的な「国民基金」を拒否し、真の謝罪と賠償を望んでいると叫びました。
これからは、全ての恨と荷を降ろして、安らかに休まれることを願います。
蔚山の東河(トンガン)病院の葬儀場で葬儀を行なって、29日地域の市民たちが追悼式を開き、翌日出棺式を行なった後、天安(チョナン)の望郷の丘で静に眠りにつきました。
(29日:追悼式、30日:葬儀)
***故ユン・ドゥリハルモニの生涯***
-1928年 釜山で生まれる
-1942年 釜山で日本軍「慰安婦」として連行され、釜山ヨンド第1慰安所で苦しみを味わう
-1945年 解放を迎える
-1986年 ウルサンに定着
-2009年5月28日永眠
現在生存している「慰安婦」被害者のハルモニは、91名になってしまいました。
台湾の元日本軍「慰安婦」被害を受けた阿媽が5月に入って2人、亡くなりました。
蘇寅嬌(Su Yen Jiao、1923年生)さんが5月13日、午後7時50分、お亡くなりになりました。享年86歳でした。 そのわずか1週間後、阿鳳阿媽が85歳で病逝いたしました。
おふたりとも、海南島へ食堂などの仕事があるといわれ、つれていかれました。
蘇寅嬌さんは1943年、阿鳳さんは1941年、海南島で場所はちがうところで被害を受けました。
阿嬌(蘇寅嬌さんの愛称)阿媽は、20歳の時、海南島へ連れて行かれ、妹の蔡桂英さん(1925年生まれ、2006年4月死去)とともに姉妹で「慰安婦」にさせられた人です。
同じ屋根の下で暮らしていた妹の蔡さんが亡くなったことを悲しみ、2~3ヶ月に1回の割合で行われているグループセラピーで、涙をうかべながら「妹のことを思えば今でも涙が出る」と発言し、他の阿媽たちに背中をさすられたり、抱きしめられたりしておりました。
細い身体で苦労が全身にしみこんでいるほど働きづくめでしたが、客家の女性は働き者だといわれるように、阿媽も苦労を当たり前のように自分一人の身に引き受けて家計を担っていました。
何度か入退院を繰り返しておりましたが、そのたびに奇跡のように元気になり、グループセラピーには欠かすことなく参加していました。
そして、とくに妹さんが亡くなってからは、「ここにくるとみんなに会えるからうれしい」と目をキラキラさせながら楽しそうに大きな声で笑ったりして過ごしておりました。
前回のグループセラピーがあった3月にも入院していましたが、今回も入・退院を繰り返していました。1度退院し、家族を安心させましたが、その2~3日後に再入院となり、5月13日~14日に行われたグループセラピーの2日目の早朝、婦援会のスタッフに阿媽死去の知らせがもたらされました。
最後のベッドで酸素マスクをしながらも残される家族の経済状態を心配し、苦労をいっぱい抱えたまま逝ってしまった阿嬌さんの姿を思い浮かべると悲しさがこみ上げてきます。
台湾のサバイバーは現在18人になってしまいました。その中でも毎回行われるグループセラピーに元気に参加する阿媽が段々少なくなってきています。
悲しみにくれてばかりはいられない、いま、できることをしなければならないと婦援会のスタッフたちは思いをあらたにしております。

小金井市でも意見書可決

なんと、6月24日、東京都小金井市でも日本軍「慰安婦」問題に対する意見書が可決されました。
以下は、その文面です。

ああ、マスコミよ、なぜ報道しないのか?


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日本軍「慰安婦」問題に対する国の誠実な対応を求める意見書


かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから、既に
64年経つが、いまだに人々の戦争被害の傷は癒されていない。そして直接の被害
者のみならず、 その子孫も親世代が傷つき癒されていないことで傷ついている。日
本軍「慰安婦」問題は、その象徴的な被害である。
2007年にはアメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会において、日本政府に対
し、「慰安婦」問題の責任を認め、公的に謝罪することなどを求める決議が採択され
た。2008年には、フィリピン議会の下院外交委員会並びに韓国及び台湾の議会でも
採択され、 国連などの国際的な人権擁護機関からも早期解決を求める勧告が出さ
れている。国際社会は「慰安婦」問題を現在に通じる重大な人権侵害と認識し、日本
政府が誠実に対応することを要請している。
「慰安婦」問題に誠実に対応することは、戦争を遂行するために女性の性が利用
されるという人権侵害が、二度とないようにするという日本政府の世界への意思表
示となる。そして、アジアの人々の戦争被害の傷を癒し、和解して平和的に共存して
いく道筋をつくることになる。
被害者の訃報が相次ぐ中、被害者の存命中に納得できる解決が急がれる。
よって、小金井市議会は、国会及び政府が1993年の河野内閣官房長官談話に基
づき、次の事項について誠実な対応をするよう強く要請する。
1  被害者出席のもと、国会で公聴会を開くこと。
2  「慰安婦」問題の責任を認めて、政府は公的に謝罪すること。
3 「慰安婦」問題の解決のため、政府は被害者の名誉回復を図ること。
以上、地方自治法第9 9条の規定により意見書を提出する。


平成21年6月24日
小金井市機会議長  宮 碕 晴 光

衆議院議長 様
参議院議長 様
内閣総理大臣 様
法務大臣 様
外務大臣 様
文部科学大臣 様

2009年6月24日水曜日

箕面市議会意見書の記事・三鷹市議会中継

昨日に引き続き、意見書可決関連です。
箕面市の北摂版の新聞記事です。
神戸版、全国版には見当たりませんでした。



三鷹市の議会の様子です。

6月10日の請願採択の様子です。

http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/live/delivery/mitaka-city_20090610point4.asx


6月23日の意見書可決の様子です。
全部で37分ほどありますが、開始20分あたりから「慰安婦」問題と女性差別撤廃条約関連の提案理由の朗読の様子です。

http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/live/delivery/mitaka-city_20090623point8.asx

はじめてみる議会風景です。大変勉強になります。
三鷹市では、「女性差別撤廃条約選択議定書の批准を求める意見書」も同時に可決されています。
頑張ってはりますね。勇気が出ます。

速報!関西:箕面市、関東:三鷹市 議会で意見書可決

6月22日、大阪府箕面市議会と6月23日東京都三鷹市議会で、日本軍「慰安婦」問題に対する政府への意見書が可決されました。各市民の皆さんの絶え間ない努力とこの問題への解決への熱意、被害女性達への連帯の気持ちが実現させたと思います。
この潮流に続けるよう、神戸も頑張りたいです。
6月27日の「ナヌムの家Ⅱ」上映会では、さっそく2市の意見書を資料として参考にさせていただきます。

以下に箕面市、三鷹市の意見書を載せます。すばらしい内容ですね。

■箕面市議会意見書

「慰安婦」問題に対する国の誠実な対応を求める意見書

かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから、六十四年が経過する。しかし、いまだに戦争被害の傷は癒されていない。

平成十九年(二〇〇七年)七月にはアメリカ下院議会が、「日本軍が女性を強制的に性奴隷にしたことを公式に認め、謝罪するよう日本政府に求める決議」を採択している。そして、アメリカの議会決議に続いて、オランダ、カナダ、EU議会などでも同種の決議が採択され、国連などの国際的な人権擁護機関からも早期解決を求める勧告が出されている。

日本政府としては、平成五年(一九九三年)八月に、当時の河野洋平官房長官が、「お詫びと反省の気持ちを申し上げる。そのような気持ちを我が国としてどのように表すかについては、今後とも真剣に検討すべきもの」という談話を発表しているが、何ら進展していない。

よって、政府においては、河野談話に矛盾しないよう「慰安婦」問題の真相究明を行い、被害者の尊厳回復に努め、誠実な対応をされるよう要望する。

 以上、地方自治法第九十九条の規定により意見書を提出する。

  平成二十一年六月二十二日

  箕  面  市  議  会

議員提出議案第十三号

■三鷹市議会意見書

日本軍「慰安婦」間題に関する意見書

 かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから既に64年がたつが、人々の戦争被害の傷はいやされていない、日本軍「慰安婦」問題は、その象徴的なものといえる。

 アジア各地で被害にあった元日本軍「慰安婦」の方々の多くは既に80歳を超え、被害者の訃報が相次いでいる昨今である。日本政府は1993年に河野内閣官房長官談話を発表し、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とおわびと反省の気持ちをあらわした。

 この談話に対し、被害者の女性たちからはさらに日本政府が「公的に責任を認め、公的に謝罪しなければ、白分たちの真の名誉と尊厳の回復にはつながらない」との声が相次いだ。

 また、国際社会からも2007年には、アメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会において、また、2008年にはフィリピン、韓国、台湾などでそれぞれ日本政府に対し、「慰安婦」問題の責任を認め、公的に謝罪することなどを求める決議が採択された。

 また、国際的な人権擁護機関からも現在に通じる重大な人権侵害として、誠実に対応することが要請されている。

 被害者の女性たちの真の願いは、戦争を遂行するために女性の性が侵害されることが二度と起こらないように、また、未来の多くの女性たちのためにも過去に行ったことには公的なけじめをつけてほしいというものである。

 1993年の河野談話は、第一次、第二次調査を経て、「われわれは、このような歴史の真実を回避することなく、むしろ教訓として直視し、歴史研究、歴史教育を通じ永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を表明し、今後とも民間の研究を含め十分に関心を払っていきたい」旨の発表がなされている。

 今、この精神を維持・発展させ、内容を具体化することこそがアジアの人々の戦争被害の傷をいやし、和解して、平和的に共存していく道筋をつくることにつながることと確信する。

 被害者の存命中に名誉につながる納得できる解決が急がれる。

 よって、本市議会は、政府に対し、下記の事項について、国の誠実な対応を強く求めるものである。

1 被害者の声に耳を傾け、真相究明を行うこと。

2 「慰安婦」問題の責任を認めて、政府は公的に謝罪すること。

3 過ちを繰り返さないために、学校などで歴史教育を通じて次世代に事実を伝え

  ること。

上記、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

  平成21623

              三鷹市議会議長 田 中 順 子


2009年6月4日木曜日

5月20日第5回水曜デモin長田


日が長くなってきました。6時半からですと、まだ日は高く、通り過ぎる方々もパネルの写真もしっかりみることができます。さわやかな風が穏やかに吹いて、気持ちのよいデモとなりました。お一人の男性が立ち止まって展示の写真に見入っておられました。写真やパネル展示も充実してきて心なしか立ち止まってみて下さる方も増えたような、、、。

また、「水曜デモを知っていますか?」の歌だけではなく、劇団水曜日による劇「海を越えてつながる私たち」の挿入歌からも何曲か歌ってもらい、変化のあるデモとなってきました。最後は、水曜デモヴァージョン河内音頭も全部、歌い踊りました。

 15名の方が参加して下さいました。チラシも200枚ほど、受け取っていただきました。

宝塚市議会意見書可決1周年―尼崎証言集会

4月25日、尼崎中央公民館で、雨の中、107人の参加者のもと、「宝塚市議会意見書可決1周年―尼崎証言集会」が開催されました。

集会プログラムの内容は、

1.「宝塚市議会意見書可決1周年を迎えて」大阪・神戸・阪神連絡会代表の挨拶

2.劇団水曜日による劇「海を越えてつながる私たち」

3.尼崎朝鮮中級学校舞踊部による舞踊「扇の舞」「小太鼓の舞」

4・DVD「“忘れてはならない、絶対に”―彼女たちの物語」の上映

5.キル・ウォノクハルモニからのビデオメッセージ

6.韓国挺身隊問題対策協議会幹事 梁路子(ヤン・ノジャ)さんによる「キル・ウォノクハルモニの近況と最近の韓国での運動状況」

7.尼崎でのこれからの取り組みについて

でした。

劇団水曜日は、ご存知の方も多いことでしょう。また、韓国ソウルでこの7月に、水曜デモを主幹しに行きます。

尼崎朝鮮中級学校の舞踊は、韓国から来られるハルモニに見ていただこうということで来ていただいたので、残念でしたが、すばらしいものでした。劇の内容ともつながるので、なかなか意味深い印象を受けました。

 DVDは、韓国挺身隊問題対策協議会制作の最新作です。韓国ソウルの西大門にただいま建設中の「戦争と女性の人権博物館」完成がいかに被害女性達の強い願いであるか、またこの博物館が全世界の女性の人権と、平和にとっていかに意義深いものか、がよく分かると思いました。

 


韓国からお招きしていた日本軍「慰安婦」被害女性のキル・ウォノクさんは、腹部の痛みで2度検査入院され、原因がわからず、今回は来ていただくことができませんでした。ですので、挺対協に頼んで、キル・ウォノクハルモニのビデオメッセージを送っていただきました。ハルモニが、私たち集会に集まった者のために、「ごめんなさい、ミヤネー、どうしましょう。」と、語りかけて下さいました。なんてやさしい、かわいい方でしょうか!これからも、ハルモニと共に、この問題の一日でも早い解決のため運動していこうと思わずにはいられません。思ったよりお元気な様子でしたが、くれぐれもお体にお気をつけ下さい。

 最後は、キル・ウォノクさんの代理で来て下さった韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の幹事のヤン・ノジャさんのお話です。(以下は講演内容からの抜粋です)

 

今までは、キルウォノクハルモニら被害女性たちが証言をすることによって人々が心を動かされて運動がはじまりましたが、これからは被害者の方々が自分の口から直接訴えること自体がむつかしくなってきたので、私たちの口からまだ知らない方々に伝えていかなくてはならなくなったと思います。

 キルウォノクハルモニは、98年に「慰安婦」としての申告をされました。テレビを見ていると「慰安婦」被害者の方がニュースに出ていたそうです。思わず「自分も当事者なのに」とひとりごとが出て、それを息子のお嫁さんが耳にしたのがきっかけで、打ち明けました。息子達は「おかあさん今までどれほど苦しかったことでしょう」と手を握ってくれ、3人でしばらくのあいだ泣き続けていたそうです。その後、申告されて、日本大使館前での水曜デモにも毎週参加されて、運動の先頭にたっておられます。(13歳でだまされて慰安所に連れて行かれたハルモニは、性病にかかったときに卵管を無理矢理取られる手術をされました。息子さんは32歳のときに養子にもらった方です。)

 申告されるまでのあいだというのは、自分がそのような経験をしたことを誰か知るのでないかと恐れていつもびくびくしながら日陰で暮らしてきたそうです。申告されて話すことでみなさんある程度自分が昔こうむった傷をいやす事ができるんですが、キルウォノクハルモニも、申告した後すぐにはご自分の体験を人前で話す勇気はでなかったそうです。しかし、被害女性が一人又一人と亡くなられる中、生きている自分が証言しなければと、数年前から証言されるようになったそうです。

 日本社会の中で各地域に住む方々が力を合わせて市議会で意見書を可決して、次は県議会、次は国会とこの問題の解決を目指している運動は本当に重要だと私達も思っています。韓国のハルモニたちも注視されていて、先日福岡市議会で意見書が可決されたときも、その日に知らせを聞いて大変喜んでられました。こういうニュースがハルモニたちに元気を与えてくれます。

 もう一つ皆さんにお願いしたいのは「戦争と女性の人権博物館」への支援です。ハルモニ達の記憶を博物館の中にこめるんですが、全世界の中で、今も女性に対する暴力蹂躙がまだまだ起こっています。それに立ち向かう場所としても博物館は存在していくことになります。』

大阪、尼崎、吹田と、連日の講演お疲れ様でした。とても分かりやすく、熱い思いにあふれたお話でした。“解決に向かって、できることは何でもやっていく。韓国国内でも、韓国政府に対して運動をしていくので、日本国内での運動にも力を合わせてやっていきましょう。”と日本での運動の重要性を強調しておられました。

 

2009年5月8日金曜日

朴保さんのライブ行ってきました

5月4日阪急西宮駅近くのライブハウスで朴保(パク・ポー)さんのライブに行ってきました。以前、在日の日本軍「慰安婦」被害女性の宋神道さんの映画のエンディングテーマが彼の『傷痍軍人の歌』という歌だと知り、どんな方かなあーと、とても気になっていました。
ライブハウスというにはこじんまりしたスペースでしたが、馴染みの方ばかりでアットホームな感じがしました。西宮の方がいらっしゃったので、早速水曜デモの宣伝もさせていただきました。済州島から京都に来ておられた4・3事件の研究者のご夫婦と拙いハングルでおしゃべりしたりしたり。ライブと交流会という感じでとても楽しい時間を過ごさせていただきました。
朴保さんは、とても気さくでサービス精神旺盛な方でした。熱さとやさしさが同居していて、シャイな、とても「味のある」ミュージシャンとお見受けしました。アメリカン・ロックのようでもあり、フォークロックのようでもあり、ハードロックのようでもあり。彼の歌はメッセージソングですが、それが詩となっているように思います。
特に素敵なのは彼のモクソリ(声)です。少しハスキーヴォイスですが、とてもよく通る、荒野に吹く風のようにかろやかで、鋭いですが、優しい肌触りの、そんな声です。(みなさまわかりますか?表現力がないので申し訳ないですが)

詳しくは、朴保オフィシャルサイト

http://www.pakpoe.com/index.htm

を参照して下さい。今後のライブ予定もアップされています。彼を応援するプロジェクトも開始されました。彼の温かい人柄に触れてください!

宋神道ハルモニの映画『オレの心は負けてない』のエンディングテーマの『傷痍軍人の歌』です。
じっくり聴いてください。心が揺す振られます。
映画もおすすめなので、また上映会などやりたいと思います。

2009年4月23日木曜日

キル・ウォノクハルモニの来日中止

被害女性の方々は、高齢になられています。これからますます、直接に証言をきく機会が少なくなっていくと思われます。
この現実を重く受け止め、一日でも早く、解決しなくてはという思いに駆られます。

被害女性の証言はありませんが、キル・ウォノクさんからのビデオレターや以前の証言のビデオなどを上映します。そして挺対協の新しいDVDも上映します。必見です。また挺対協から、ヤン・ノジャさんが特別に講演に来てくれます。
被害女性の直接の証言を聞くことはとても大切なことですが、ビデオや出版物、映画などでもこの問題のことについて知ることができます。これからの運動の方法など考えることになりそうです。
キル・ウォノクさんは、体調も戻られて、今週の水曜デモには元気に出ておられるそうです。ハルモニの気力、頑張りには本当に頭が下がります。

梁路子(ヤンノヂャ)さんプロフィール
韓国挺身隊問題対策協議会 幹事
1年3ヶ月 韓国外国語大学語学研修院に通い始めながら挺対協でボランティアをはじめ、その後 聖公会大学 社会科学部に編入し卒業までボランティアを続ける。大学卒業後、今年2月から正式スタッフに。在日3世、京都府出身。2008年の『関西フォーラム』では事務局を担当。

各地の集会主催者からの、メッセージをのせます。
■ 大阪
  吉元玉(キルウォノク)ハルモニが体調を崩し来日できなくなりました。ハ
ルモニの証言を期待された皆様に心からお詫びします。高齢の被害者の方々への謝罪と
補償は時間との闘いであることを改めて痛感しています。
  韓国挺対協の梁路子(ヤンノヂャ)さんに講演していただくこととなりました。キム
ウォノクハルモニはビデオレターで参加していくださいます。ぜひ今後私たちは何をで
きるか問い直す集会としたいと思います。ご参加ください。
■ 尼崎
  宝塚市議会意見書可決1周年を記念する集会に、韓国から被害女性をお呼びして証言集会を開催しようということになり、韓国挺身隊問題対策協議会から、2月20日に、吉元玉(キル・ウォノク)さんが来て下さると言うお返事をもらいました。
その後、みなさんに広くお知らせして準備を進めてきましたが、キル・ウォノクさんが体調をこわされ、2度検査入院をされたがおなかの痛みの原因がわからないとの知らせが来ました。
  キルウォノクさんは、「私が行かなければ」と、おっしゃっておられるとのことでしたが、私たちは、大事をとっていただいて、ビデオメッセージを送って下さるようにお願いしました。
  キルウォノクさんが来られるのを待っておられた皆さんには本当に申しわけありませんが、どうかお許し願います。そして、高齢の被害女性の方々が、お一人でも生きておられるあいだに、心から晴れやかに笑っていただけるように、一緒に運動してくださることをお願いします。
■ 吹田
  証言集会に来てくださる予定のキル・ウォノクさんが体調がすぐれないため来日できなくなりました。これまで痛い身体を引きずりながらも何度も日本に来て証言をしてくださいましたが、今は療養していただくことが大事だと判断しました。一日も早く回復されるようお祈りしながら、今回の集会は予定通り行います。
  直接被害者の声を聞きたいと期待していらっしゃる皆さま、大変申し訳ありませんが、ご理解をお願いいたします。また、被害女性たちが高齢になられており一日も早い解決が急がれることを肝に銘じて解決に取り組んでいきましょう。
  今回の集会ではキル・ウォノクさんの証言DVDを上映いたします。また、韓国挺身隊問題対策協議会から来ていただき、韓国の被害者の近況や運動の状況についての報告もあります。是非集会に来ていただき、「慰安婦」問題の真実を知ってください

2009年4月7日火曜日

海南島の戦時性暴力被害賠償請求高裁判決

遅くなりましたが、海南島の裁判の報告をします。

3月26日午後3時判決が言い渡されました。
請求は、棄却されました。
日中共同声明によって、請求権が放棄されている、という理由から。

不当判決!であるという弁護団の声明を以下に記載します。
残念な結果となりましたが、国内外の決議や意見書可決のことが明記されています。

弁 護 団 声 明

1 本日,東京高等裁判所第21民事部(渡邊等裁判長)は,日本軍によって「慰
安婦」とされた中国海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損
害賠償を求めた控訴請求事件(海南島戦時性暴力被害賠償請求事件)に関して,
控訴人らの控訴を棄却する判決を下した。

2 本件は,中国海南島において,旧日本軍(主として海軍)が中国人の少女を
強制的に拉致・監禁し,継続的かつ組織的に戦時性奴隷とした事案である。
本判決は,「本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの
女性であったのであり,このような本件被害女性らに対し軍の力により威圧しあ
るいは脅迫して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本
件加害行為は,極めて卑劣な行為であって,厳しい非難を受けるべきである。この
ような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって,こ
れが既に癒されたとか,償われたとかいうことができないことは本件の経緯から
明らかである。」(判決書28頁)と認定している。
本件被害の質的側面においてもPTSDはもとより「破局的体験後の持続的人
格変化」も認定している(判決書30頁)。
以上の事実認定を踏まえ,国家無答責の法理を排斥したうえ民法715条1項を適用
し控訴人らの損害賠償請求権を認めた。

3 しかしながら,本判決は,2007.4.27最高裁判決を踏襲し,控訴人らの損害賠
償請求権について,日中共同声明第5項により「裁判上訴求する権能」が放棄さ
れたことを理由に控訴を棄却した。
  もっとも本判決は,最高裁判決と同様,個人の賠償請求権につき,その権利
は実体的には消滅しないと判示した。
  これは個人の賠償請求権につき,裁判上訴求する機能のみが失われたとする
ものであり,個別具体的な請求権について,債務者側において任意の自発的な対
応をすることは何ら妨げられないとを認めたものである。

4 この点,日本政府も,二国間条約で損害賠償問題は解決済みであるとの主張
しながらも,「慰安婦」の問題について解決されていない問題があると認め,
1993年,河野洋平官房長官の談話(以下「河野談話」という)において,被害者
に対して事実を認め謝罪をし,適切な措置をとることを表明した。
そして,日本政府は,「慰安婦」問題につき「女性のためのアジア平和国民基金
(アジア女性基金)」を設置したが,同基金によってすら中国人被害者に関して
は何らの措置もとられていない。
  したがって,本判決で損害賠償請求権が裁判上訴求できないからといって問
題が解決されたわけではなく,未だ河野談話の見地にたって解決されなければな
らないことにかわりはない。
  しかも,それは過去の戦後処理の問題ではなく,被害者らが今なお苦しみの
中で生きており,まさに現代において速やかに解決すべき課題である。

5 アメリカ連邦下院における対日謝罪要求決議の外,カナダ,オランダ,EU議
会,国連人権理事会,国連自由権規約委員会,ILO条約勧告適用専門家委員会等
々で解決を求める決議がなされている。このように国際社会は,被害を受けた女
性の尊厳と人権の回復のための真の措置をとるよう日本政府に強く迫っている。
  国内においても宝塚市,清瀬市,札幌市に続いて福岡市議会において3月25日
解決を求める決議が賛成多数で可決された。
  このように解決を迫る世論は国内外を問わず高まっている。

6 今,日本政府に問われているのは言葉ではなく行動である。真に河野談話を
承継し,また女性達の人権を侵害した問題であると理解しているのであれば,各
国議会決議や国際機関の勧告を受け,真摯な対応をすべきである。
  日本政府は,本判決で厳しく認定された加害の事実と深刻な被害の事実を真
摯に受け止め,被害者一人一人が納得するように謝罪をし,その謝罪の証として
適切な措置をとるべきである。
私たちは直ちに上告するとともに,日本政府に対してこれら被害者の要求が実現
されるまで戦い続ける決意を表明するものである。

 2009(平成21)年3月26日

海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団
中国人戦争被害賠償請求事件弁護団

2009年4月1日水曜日

3月18日第3回水曜デモin長田

3月は、第2水曜日阪急西宮北口でしたのと同じく、市民への街頭アンケートを行ないました。アンケートの質問内容は、「日朝問題」「慰安婦問題」「憲法問題」について、でした。具体的には、“2002年のピョンヤン宣言にしたがって日朝国交正常化を早く実現するべきである。”“「慰安婦」問題について、2007年以来、世界各国からまた国内市議会からから日本政府を批判する決議や意見書が可決されています。早急に公式謝罪をし、解決のための法律をつくるべきである。”“田母神前航空幕僚長が言ったように、日本は憲法を変えて戦争できるようにするべきである。”の3つの質問に、赤、青、緑、(そう思う、そう思わない、わからない)のシールを貼ってもらうという方法で、やってみました。

西宮は、
*****
3.11は急ぎ足で道行く人を呼び止めて街角アンケートを行いました。人数は10人程でしたが、世情の一端を覗かせていました。
*****
でした。
印象的だったのは、“ピョンヤン宣言ってなに?わからない。”という意見があり、分からないと答えた方が多かったということです。このアンケートをきっかけに、市民同士が日朝関係のことを少しでも話し合うことができました。

長田は、といいますと約8名の方が参加してくださいました。
印象的だったのはやはり、日朝関係について。一般市民は、偏った報道の結果、あまりにも共和国に対して知らないんだなあと、改めて感じました。“北朝鮮が国交を持っている国ってあるの?北朝鮮は、日本と国交を持ちたいの?”などのはっきりした疑問を投げかけて下さる方もいて、よいアンケートになったかと思います。
また、次回もやります。(迎撃などということがないように)

2009年3月26日木曜日

オーストラリアの2市議会と福岡市議会で意見書が可決されました

2009年に入ってからも、海外から、また国内からも
日本政府に対して、日本軍「慰安婦」問題の誠実な対応、解決を求める潮流はやみません。

オーストラリア(あの親日的な)の自治体2つ、3月3日ストラスフィールド市決議でまた同じくニューサウスウェールズ州のライド市で39日に市議会決議が採択されました。
キル・ウォノクハルモニの勇気ある証言がオーストラリアの人たちを動かしました。
詳しくは、おすすめサイトの“「慰安婦」決議に応え今こそ真の解決を!”をご参照ください。
決議の内容の訳文がのせてあります。

そして、3月25日福岡市の議会で、日本政府に対する意見書が可決されました。
以下に意見書の内容をのせます。

******

日本軍「慰安婦」問題に対する国の誠実な対応を求める意見書

 

かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから、すでに64年経ちますが、いまだに人々の戦争被害の傷は癒されていません。そして直接の被害者のみならず、その子孫も親世代が傷つき癒されていないことで傷ついています。日本軍「慰安婦」問題は、その象徴的な被害です。

 

 2007年にはアメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会において、日本政府に対し、「慰安婦」問題の責任を認め、公的に謝罪することなどを求める決議が採択されています。2008年にはフイリピンの外交委員会や韓国及び台湾の議会でも採択され、国連などの国際的な人権擁護機関からも早期解決を求める勧告が出されています。国際社会は「慰安婦」問題を現在に通じる重大な人権侵害と認識し、日本政府が誠実に対応することを要請しています。

 

「慰安婦」問題に誠実に対応することは、戦争を遂行するために女性の性が利用されるという人権侵害が二度とないようにするという日本政府の世界への意思表示となります。そして、アジアの人々の戦争被害の傷を癒し、和解して平和的に共存していく道筋を作ることになります。

 

被害者の訃報が相次ぐ中、被害者の存命中に納得できる解決が急がれます。

よって、福岡市議会は、国会及び政府が、1993年の河野内閣官房長官談話に基づき、次の事項について誠実な対応をされるよう強く要請します。

 

1) 被害者出席のもと、国会で公聴会を開くこと

2) 「慰安婦」問題の責任を認めて、政府は公的に謝罪すること

3) 「慰安婦」問題の解決のため、政府は被害者の名誉回復を図ること

 

以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出します。

 

                               平成21年3月 日

衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣、法務大臣、外務大臣、文部科学大臣 あて

 

                               福岡市議会議長 川口 浩 

******

マスコミは、自衛隊の迎撃の準備のことを当然のことのように垂れ流して、
市民の平和運動や非戦・反戦運動のことはないがごときのように、ほとんど伝えません。

去年の3月26日のこの日に、宝塚市議会で意見書が可決されてから、東京都清瀬市
札幌市と議会から意見書が可決されています。そして今また、朗報が、、、。
これにつづいて、現在、日本全国で取り組みが行なわれています。
近隣の地域での運動に御協力お願い致します。



2009年3月13日金曜日

「識字教室」の作品展


2月26日~28日 識字教室の作品展がありました
毎年恒例の作品展が開催されました。(地域の文化・発表会に参加という形です)毎週月曜日・水曜日は午後1時から、土曜日は10時から、識字教室が開かれています。年に1回、このようにして習字や作文を発表するのです。

習いにこられている方々は、在日コリアン一世のおばあさん達、日本人のおばあさんお一人、在日中国人のおばあさんお一人、数名の男性(嘗て、路上生活をされていた方々)です。「識字って何だ?」と思われる方は、“部落解放”“字を識る”“パウロ・フレイレ”などをキィワードに勉強して下さい。私もまだまだ解っていないですし、ここで簡単には言えないので、、、。
みなさん、今まで、“字が書けない、読めない”ということで、日常生活に不便を強いられるだけでなく、情報格差や仕事の機会の格差、社会的に不利益を被らされ、結果的に差別されてこられた方々です(逆も真なりですが)。しかも、「字が読めない、学がないから自分はだめだ」と思わされてこられました。
在日コリアン一世の方は、夜間中学や、定時制高校に行かれた方も多くいます。また、逆に識字教室を通じて、夜間中学や定時制高校に行かれるようになった方もいらっしゃいます。
私は、“先生”として参加しているのですが、教えるというよりは、教えてもらっています。みなさん、歴史の生き証人ですから。お話、作文の内容は、本当に貴重です。聞かせていただく機会があることが、本当にありがたいと思います。
父や母が12歳になったら、「慰安婦」にされるからと、日本に働きに行っている男の人と結婚させられたから日本に来たというハルモニ。
南京に行く進路沿いに故郷があり、鉄道を日本兵が毎晩見張っていた、日本兵が女の人をさらって乱暴するから、おかあさんが、顔を真っ黒に塗ってドブ(排水溝)に小さくなって隠れなさいと、言われ言う通りにしていた、というダーニャ。
被害女性達と変わらない世代です。同じ場所にいて、被害にあったか、あわなかったかの違いです。ここにいらっしゃるおばあさんたちも、同じ経験をしたかもしれない、、、。

おばあさんたちの辛い体験を乗り越えてきた逞しさ、強さ、明るさ、優しさ、寛容さ、ユーモアに、尊敬の念を抱かずにはおれません。
“もっと長生きしてもっと勉強して思ったことぜんぶ書きたい。それで死んだら死んだら思いのこすことはない。”(あるハルモニの文章)みなさん、学ぶことにとても熱心で、喜びにあふれています。
お花見や遠足では、歌って踊って食べてと楽しむのですが、最近は、やはり、みなさん高齢となられているので、体調を崩されたり、足がいうことを利かなくなったり、参加が難しくなる方もいらっしゃいます。
勉強しているのは、「日本語」。多くの方にとっては、かつての侵略者、抑圧者の言葉です。日本に住んでいるなら、日本語ができることは強みになるのですが、、、。複雑な思いにとらわれている今日この頃です。