水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年6月29日月曜日

6月29日京田辺市でも意見書可決!

昨年8月に地元での学習会から運動がはじまり、1月から請願署名を集め、3月議会に一度提出、京田辺市議会は6月議会中、25日の議会運営委員会で、3月議会で提出していた、日本軍「慰安婦」問題の早期解決を求める請願署名と陳情の趣旨を受けた意見書を、29日(月)の本会議に提出することを決めました。これを受けて29日の本会議で、全会派が署名し、全会一致で意見書は可決されました。

全国で、8市めの意見書可決です。

以下に、その文面をのせます。

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日本軍「慰安婦」問題について日本政府へ早期解決を求めるための意見書

 戦後64年たった今も、日本軍「慰安婦」問題について、被害女性からの謝罪と補償を求める訴えが続けられている。人間としての名誉と尊厳を著しく傷つけられた被害者の思いは筆舌に尽くしがたいものがある。 2007年7月にはアメリカ下院において「日本軍が女性を強制的に性奴隷にした」ことを公式に認め、謝罪するよう日本政府に求める決議が採択された。

 その後、カナダ、オランダ、EU議会でも採択され、2008年には、フィリピン、台湾、韓国でもあいついで同様の決議が採択された。さらに国連やILOなどの国際的な人権擁護機構からも繰り返し勧告や指摘がされている。

 被害女性たちは、今、80歳、90歳の高齢になっており、一日も早い解決が求められている。政府は、1993年の河野洋平官房長官(当時)の「お詫びと反省の気持ちを中し上げる。」という「談話」を誠実に踏襲し、日本軍「慰安婦」問題被害者の公式謝罪と補償を求める声に耳を傾け、早急に問題の解決を図るよう求めるものである。

 以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

平成21年6月29日

京田辺市議会議長 上田 登 

【提出先】衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣



2009年6月28日日曜日

6月17日第6回水曜デモin長田





















京都から、姫路から、約15名の方々が参加して下さいました。
ビラも250枚あっという間になくなり、少し早めでしたけれど、終了しました。
5月に亡くなられた、4人の被害女性の方々のご冥福をお祈りして黙祷をささげました。

キム・ジョンエハルモニ、ユン・ドゥリハルモニ、蘇寅嬌阿媽(スウ・エン・チャオアーマー)阿鳳阿媽(アー・ポウアーマー)、みなさんの遺志はわたしたちが受けつぎます。3市の意見書可決のニュースが間に合わなかったことが悔しいです。

以下は、韓国、台湾の被害女性を支援する団体からのニュースをまとめたものです。第6回目水曜デモのチラシにものせました。

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追悼
12月15日から5ヶ月間以上、つらい闘病生活をしてきたキム・ジョンエハルモニ(慶尚南道トンヨン居住)が、5月23日夜11時30分ごろに亡くなられました。(享年78歳)
うっ血性心臓病で呼吸困難と、ほとんどすべての臓器がきちんと機能せず
全身がぱんぱんに腫れたまま座って眠る苦痛の闘病生活を続けてきたハルモニ。
手を握って「生かしておくれ」と言っていた生きるための強い意志をついにあきらめられました。
賢明で頭がよく、ユーモアがあふれ、私たちをよく笑わせてくれたキム・ジョンエハルモニ。
これからはハルモニ語録を聞けなくなりました。 いつも国に面倒をかけてはいけないと言っていたハルモニ。そのため、病院もいかず病気を深刻にしたハルモニ。無理やりでも病院に連れて行けなかったのが、悔しく胸を打ちます。ハルモニを愛する娘息子がハルモニを胸に刻んで記憶します。
寂しがらず、この世の恨はすべて残して、安らかに逝ってください。
どうかそこで果たせなかった幸せを享受し、したかった勉強も思いっきりしてくれるよう祈ります。
ハルモニの冥福を祈ります。ハルモニが逝く道が寂しくないよう皆さんも祈ってください。
***ハルモニの人生***
-1921年 トンヨンで生まれる
-1940年 20歳の年に、網元で働いているところ強制的に拉致され、中国に連れて行かれ5年間「過酷な慰安婦」生活を強いられる
-1945年 南京から釜山へ汽車に乗って帰国した後、船に乗ってトンヨンに帰郷
-生計手段は工場・農作業・魚の行商など
-結婚はせず甥姪を育て一人で暮らす
-1993年 日本軍「慰安婦」被害者として政府に登録
-2009年5月23日夜11時30分ごろ 恨多い生涯を終える
*家族は報道を望まず。
5月28日、日本軍「慰安婦」被害者ユン・ドゥリハルモニが亡くなられました。(享年71歳)
故ユン・ドゥリハルモニは、1928年に釜山で生まれ、15歳の時に釜山派出所前を通った時に連行され、釜山ヨンドにある慰安所で「慰安婦」として苦しい日々を送らなければなりませんでした。
それこそ、家から近いところの慰安所にに閉じ込められなければならないという悲劇にあいました。
解放後、とても文無しでは帰れず、食堂で1年余り働き家に帰りましたが、困難な状況と慰安所生活によって心的・肉体的苦痛などで、再び辛い日々を送りました。
結局釜山を離れ、ソウルを経て鬱山(ウルサン)に落ち着いた後、これまで過ごしてきました。
ハルモニは生前に、「故郷は釜山だけど、慰安婦だった頃を思い出すから行きたくない」と話していました。人生をめちゃめちゃにし言い逃れをする日本に怒り、自分が被ったことを死んでも忘れないと言っていたハルモニは、日本政府の欺瞞的な「国民基金」を拒否し、真の謝罪と賠償を望んでいると叫びました。
これからは、全ての恨と荷を降ろして、安らかに休まれることを願います。
蔚山の東河(トンガン)病院の葬儀場で葬儀を行なって、29日地域の市民たちが追悼式を開き、翌日出棺式を行なった後、天安(チョナン)の望郷の丘で静に眠りにつきました。
(29日:追悼式、30日:葬儀)
***故ユン・ドゥリハルモニの生涯***
-1928年 釜山で生まれる
-1942年 釜山で日本軍「慰安婦」として連行され、釜山ヨンド第1慰安所で苦しみを味わう
-1945年 解放を迎える
-1986年 ウルサンに定着
-2009年5月28日永眠
現在生存している「慰安婦」被害者のハルモニは、91名になってしまいました。
台湾の元日本軍「慰安婦」被害を受けた阿媽が5月に入って2人、亡くなりました。
蘇寅嬌(Su Yen Jiao、1923年生)さんが5月13日、午後7時50分、お亡くなりになりました。享年86歳でした。 そのわずか1週間後、阿鳳阿媽が85歳で病逝いたしました。
おふたりとも、海南島へ食堂などの仕事があるといわれ、つれていかれました。
蘇寅嬌さんは1943年、阿鳳さんは1941年、海南島で場所はちがうところで被害を受けました。
阿嬌(蘇寅嬌さんの愛称)阿媽は、20歳の時、海南島へ連れて行かれ、妹の蔡桂英さん(1925年生まれ、2006年4月死去)とともに姉妹で「慰安婦」にさせられた人です。
同じ屋根の下で暮らしていた妹の蔡さんが亡くなったことを悲しみ、2~3ヶ月に1回の割合で行われているグループセラピーで、涙をうかべながら「妹のことを思えば今でも涙が出る」と発言し、他の阿媽たちに背中をさすられたり、抱きしめられたりしておりました。
細い身体で苦労が全身にしみこんでいるほど働きづくめでしたが、客家の女性は働き者だといわれるように、阿媽も苦労を当たり前のように自分一人の身に引き受けて家計を担っていました。
何度か入退院を繰り返しておりましたが、そのたびに奇跡のように元気になり、グループセラピーには欠かすことなく参加していました。
そして、とくに妹さんが亡くなってからは、「ここにくるとみんなに会えるからうれしい」と目をキラキラさせながら楽しそうに大きな声で笑ったりして過ごしておりました。
前回のグループセラピーがあった3月にも入院していましたが、今回も入・退院を繰り返していました。1度退院し、家族を安心させましたが、その2~3日後に再入院となり、5月13日~14日に行われたグループセラピーの2日目の早朝、婦援会のスタッフに阿媽死去の知らせがもたらされました。
最後のベッドで酸素マスクをしながらも残される家族の経済状態を心配し、苦労をいっぱい抱えたまま逝ってしまった阿嬌さんの姿を思い浮かべると悲しさがこみ上げてきます。
台湾のサバイバーは現在18人になってしまいました。その中でも毎回行われるグループセラピーに元気に参加する阿媽が段々少なくなってきています。
悲しみにくれてばかりはいられない、いま、できることをしなければならないと婦援会のスタッフたちは思いをあらたにしております。

小金井市でも意見書可決

なんと、6月24日、東京都小金井市でも日本軍「慰安婦」問題に対する意見書が可決されました。
以下は、その文面です。

ああ、マスコミよ、なぜ報道しないのか?


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日本軍「慰安婦」問題に対する国の誠実な対応を求める意見書


かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから、既に
64年経つが、いまだに人々の戦争被害の傷は癒されていない。そして直接の被害
者のみならず、 その子孫も親世代が傷つき癒されていないことで傷ついている。日
本軍「慰安婦」問題は、その象徴的な被害である。
2007年にはアメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会において、日本政府に対
し、「慰安婦」問題の責任を認め、公的に謝罪することなどを求める決議が採択され
た。2008年には、フィリピン議会の下院外交委員会並びに韓国及び台湾の議会でも
採択され、 国連などの国際的な人権擁護機関からも早期解決を求める勧告が出さ
れている。国際社会は「慰安婦」問題を現在に通じる重大な人権侵害と認識し、日本
政府が誠実に対応することを要請している。
「慰安婦」問題に誠実に対応することは、戦争を遂行するために女性の性が利用
されるという人権侵害が、二度とないようにするという日本政府の世界への意思表
示となる。そして、アジアの人々の戦争被害の傷を癒し、和解して平和的に共存して
いく道筋をつくることになる。
被害者の訃報が相次ぐ中、被害者の存命中に納得できる解決が急がれる。
よって、小金井市議会は、国会及び政府が1993年の河野内閣官房長官談話に基
づき、次の事項について誠実な対応をするよう強く要請する。
1  被害者出席のもと、国会で公聴会を開くこと。
2  「慰安婦」問題の責任を認めて、政府は公的に謝罪すること。
3 「慰安婦」問題の解決のため、政府は被害者の名誉回復を図ること。
以上、地方自治法第9 9条の規定により意見書を提出する。


平成21年6月24日
小金井市機会議長  宮 碕 晴 光

衆議院議長 様
参議院議長 様
内閣総理大臣 様
法務大臣 様
外務大臣 様
文部科学大臣 様

2009年6月24日水曜日

箕面市議会意見書の記事・三鷹市議会中継

昨日に引き続き、意見書可決関連です。
箕面市の北摂版の新聞記事です。
神戸版、全国版には見当たりませんでした。



三鷹市の議会の様子です。

6月10日の請願採択の様子です。

http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/live/delivery/mitaka-city_20090610point4.asx


6月23日の意見書可決の様子です。
全部で37分ほどありますが、開始20分あたりから「慰安婦」問題と女性差別撤廃条約関連の提案理由の朗読の様子です。

http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/live/delivery/mitaka-city_20090623point8.asx

はじめてみる議会風景です。大変勉強になります。
三鷹市では、「女性差別撤廃条約選択議定書の批准を求める意見書」も同時に可決されています。
頑張ってはりますね。勇気が出ます。

速報!関西:箕面市、関東:三鷹市 議会で意見書可決

6月22日、大阪府箕面市議会と6月23日東京都三鷹市議会で、日本軍「慰安婦」問題に対する政府への意見書が可決されました。各市民の皆さんの絶え間ない努力とこの問題への解決への熱意、被害女性達への連帯の気持ちが実現させたと思います。
この潮流に続けるよう、神戸も頑張りたいです。
6月27日の「ナヌムの家Ⅱ」上映会では、さっそく2市の意見書を資料として参考にさせていただきます。

以下に箕面市、三鷹市の意見書を載せます。すばらしい内容ですね。

■箕面市議会意見書

「慰安婦」問題に対する国の誠実な対応を求める意見書

かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから、六十四年が経過する。しかし、いまだに戦争被害の傷は癒されていない。

平成十九年(二〇〇七年)七月にはアメリカ下院議会が、「日本軍が女性を強制的に性奴隷にしたことを公式に認め、謝罪するよう日本政府に求める決議」を採択している。そして、アメリカの議会決議に続いて、オランダ、カナダ、EU議会などでも同種の決議が採択され、国連などの国際的な人権擁護機関からも早期解決を求める勧告が出されている。

日本政府としては、平成五年(一九九三年)八月に、当時の河野洋平官房長官が、「お詫びと反省の気持ちを申し上げる。そのような気持ちを我が国としてどのように表すかについては、今後とも真剣に検討すべきもの」という談話を発表しているが、何ら進展していない。

よって、政府においては、河野談話に矛盾しないよう「慰安婦」問題の真相究明を行い、被害者の尊厳回復に努め、誠実な対応をされるよう要望する。

 以上、地方自治法第九十九条の規定により意見書を提出する。

  平成二十一年六月二十二日

  箕  面  市  議  会

議員提出議案第十三号

■三鷹市議会意見書

日本軍「慰安婦」間題に関する意見書

 かつての戦争において、日本が近隣諸国の人々に多大な被害を与えてから既に64年がたつが、人々の戦争被害の傷はいやされていない、日本軍「慰安婦」問題は、その象徴的なものといえる。

 アジア各地で被害にあった元日本軍「慰安婦」の方々の多くは既に80歳を超え、被害者の訃報が相次いでいる昨今である。日本政府は1993年に河野内閣官房長官談話を発表し、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とおわびと反省の気持ちをあらわした。

 この談話に対し、被害者の女性たちからはさらに日本政府が「公的に責任を認め、公的に謝罪しなければ、白分たちの真の名誉と尊厳の回復にはつながらない」との声が相次いだ。

 また、国際社会からも2007年には、アメリカ、オランダ、カナダ、EUなどの議会において、また、2008年にはフィリピン、韓国、台湾などでそれぞれ日本政府に対し、「慰安婦」問題の責任を認め、公的に謝罪することなどを求める決議が採択された。

 また、国際的な人権擁護機関からも現在に通じる重大な人権侵害として、誠実に対応することが要請されている。

 被害者の女性たちの真の願いは、戦争を遂行するために女性の性が侵害されることが二度と起こらないように、また、未来の多くの女性たちのためにも過去に行ったことには公的なけじめをつけてほしいというものである。

 1993年の河野談話は、第一次、第二次調査を経て、「われわれは、このような歴史の真実を回避することなく、むしろ教訓として直視し、歴史研究、歴史教育を通じ永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を表明し、今後とも民間の研究を含め十分に関心を払っていきたい」旨の発表がなされている。

 今、この精神を維持・発展させ、内容を具体化することこそがアジアの人々の戦争被害の傷をいやし、和解して、平和的に共存していく道筋をつくることにつながることと確信する。

 被害者の存命中に名誉につながる納得できる解決が急がれる。

 よって、本市議会は、政府に対し、下記の事項について、国の誠実な対応を強く求めるものである。

1 被害者の声に耳を傾け、真相究明を行うこと。

2 「慰安婦」問題の責任を認めて、政府は公的に謝罪すること。

3 過ちを繰り返さないために、学校などで歴史教育を通じて次世代に事実を伝え

  ること。

上記、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

  平成21623

              三鷹市議会議長 田 中 順 子


2009年6月4日木曜日

5月20日第5回水曜デモin長田


日が長くなってきました。6時半からですと、まだ日は高く、通り過ぎる方々もパネルの写真もしっかりみることができます。さわやかな風が穏やかに吹いて、気持ちのよいデモとなりました。お一人の男性が立ち止まって展示の写真に見入っておられました。写真やパネル展示も充実してきて心なしか立ち止まってみて下さる方も増えたような、、、。

また、「水曜デモを知っていますか?」の歌だけではなく、劇団水曜日による劇「海を越えてつながる私たち」の挿入歌からも何曲か歌ってもらい、変化のあるデモとなってきました。最後は、水曜デモヴァージョン河内音頭も全部、歌い踊りました。

 15名の方が参加して下さいました。チラシも200枚ほど、受け取っていただきました。

宝塚市議会意見書可決1周年―尼崎証言集会

4月25日、尼崎中央公民館で、雨の中、107人の参加者のもと、「宝塚市議会意見書可決1周年―尼崎証言集会」が開催されました。

集会プログラムの内容は、

1.「宝塚市議会意見書可決1周年を迎えて」大阪・神戸・阪神連絡会代表の挨拶

2.劇団水曜日による劇「海を越えてつながる私たち」

3.尼崎朝鮮中級学校舞踊部による舞踊「扇の舞」「小太鼓の舞」

4・DVD「“忘れてはならない、絶対に”―彼女たちの物語」の上映

5.キル・ウォノクハルモニからのビデオメッセージ

6.韓国挺身隊問題対策協議会幹事 梁路子(ヤン・ノジャ)さんによる「キル・ウォノクハルモニの近況と最近の韓国での運動状況」

7.尼崎でのこれからの取り組みについて

でした。

劇団水曜日は、ご存知の方も多いことでしょう。また、韓国ソウルでこの7月に、水曜デモを主幹しに行きます。

尼崎朝鮮中級学校の舞踊は、韓国から来られるハルモニに見ていただこうということで来ていただいたので、残念でしたが、すばらしいものでした。劇の内容ともつながるので、なかなか意味深い印象を受けました。

 DVDは、韓国挺身隊問題対策協議会制作の最新作です。韓国ソウルの西大門にただいま建設中の「戦争と女性の人権博物館」完成がいかに被害女性達の強い願いであるか、またこの博物館が全世界の女性の人権と、平和にとっていかに意義深いものか、がよく分かると思いました。

 


韓国からお招きしていた日本軍「慰安婦」被害女性のキル・ウォノクさんは、腹部の痛みで2度検査入院され、原因がわからず、今回は来ていただくことができませんでした。ですので、挺対協に頼んで、キル・ウォノクハルモニのビデオメッセージを送っていただきました。ハルモニが、私たち集会に集まった者のために、「ごめんなさい、ミヤネー、どうしましょう。」と、語りかけて下さいました。なんてやさしい、かわいい方でしょうか!これからも、ハルモニと共に、この問題の一日でも早い解決のため運動していこうと思わずにはいられません。思ったよりお元気な様子でしたが、くれぐれもお体にお気をつけ下さい。

 最後は、キル・ウォノクさんの代理で来て下さった韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の幹事のヤン・ノジャさんのお話です。(以下は講演内容からの抜粋です)

 

今までは、キルウォノクハルモニら被害女性たちが証言をすることによって人々が心を動かされて運動がはじまりましたが、これからは被害者の方々が自分の口から直接訴えること自体がむつかしくなってきたので、私たちの口からまだ知らない方々に伝えていかなくてはならなくなったと思います。

 キルウォノクハルモニは、98年に「慰安婦」としての申告をされました。テレビを見ていると「慰安婦」被害者の方がニュースに出ていたそうです。思わず「自分も当事者なのに」とひとりごとが出て、それを息子のお嫁さんが耳にしたのがきっかけで、打ち明けました。息子達は「おかあさん今までどれほど苦しかったことでしょう」と手を握ってくれ、3人でしばらくのあいだ泣き続けていたそうです。その後、申告されて、日本大使館前での水曜デモにも毎週参加されて、運動の先頭にたっておられます。(13歳でだまされて慰安所に連れて行かれたハルモニは、性病にかかったときに卵管を無理矢理取られる手術をされました。息子さんは32歳のときに養子にもらった方です。)

 申告されるまでのあいだというのは、自分がそのような経験をしたことを誰か知るのでないかと恐れていつもびくびくしながら日陰で暮らしてきたそうです。申告されて話すことでみなさんある程度自分が昔こうむった傷をいやす事ができるんですが、キルウォノクハルモニも、申告した後すぐにはご自分の体験を人前で話す勇気はでなかったそうです。しかし、被害女性が一人又一人と亡くなられる中、生きている自分が証言しなければと、数年前から証言されるようになったそうです。

 日本社会の中で各地域に住む方々が力を合わせて市議会で意見書を可決して、次は県議会、次は国会とこの問題の解決を目指している運動は本当に重要だと私達も思っています。韓国のハルモニたちも注視されていて、先日福岡市議会で意見書が可決されたときも、その日に知らせを聞いて大変喜んでられました。こういうニュースがハルモニたちに元気を与えてくれます。

 もう一つ皆さんにお願いしたいのは「戦争と女性の人権博物館」への支援です。ハルモニ達の記憶を博物館の中にこめるんですが、全世界の中で、今も女性に対する暴力蹂躙がまだまだ起こっています。それに立ち向かう場所としても博物館は存在していくことになります。』

大阪、尼崎、吹田と、連日の講演お疲れ様でした。とても分かりやすく、熱い思いにあふれたお話でした。“解決に向かって、できることは何でもやっていく。韓国国内でも、韓国政府に対して運動をしていくので、日本国内での運動にも力を合わせてやっていきましょう。”と日本での運動の重要性を強調しておられました。