水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年6月28日日曜日

6月17日第6回水曜デモin長田





















京都から、姫路から、約15名の方々が参加して下さいました。
ビラも250枚あっという間になくなり、少し早めでしたけれど、終了しました。
5月に亡くなられた、4人の被害女性の方々のご冥福をお祈りして黙祷をささげました。

キム・ジョンエハルモニ、ユン・ドゥリハルモニ、蘇寅嬌阿媽(スウ・エン・チャオアーマー)阿鳳阿媽(アー・ポウアーマー)、みなさんの遺志はわたしたちが受けつぎます。3市の意見書可決のニュースが間に合わなかったことが悔しいです。

以下は、韓国、台湾の被害女性を支援する団体からのニュースをまとめたものです。第6回目水曜デモのチラシにものせました。

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追悼
12月15日から5ヶ月間以上、つらい闘病生活をしてきたキム・ジョンエハルモニ(慶尚南道トンヨン居住)が、5月23日夜11時30分ごろに亡くなられました。(享年78歳)
うっ血性心臓病で呼吸困難と、ほとんどすべての臓器がきちんと機能せず
全身がぱんぱんに腫れたまま座って眠る苦痛の闘病生活を続けてきたハルモニ。
手を握って「生かしておくれ」と言っていた生きるための強い意志をついにあきらめられました。
賢明で頭がよく、ユーモアがあふれ、私たちをよく笑わせてくれたキム・ジョンエハルモニ。
これからはハルモニ語録を聞けなくなりました。 いつも国に面倒をかけてはいけないと言っていたハルモニ。そのため、病院もいかず病気を深刻にしたハルモニ。無理やりでも病院に連れて行けなかったのが、悔しく胸を打ちます。ハルモニを愛する娘息子がハルモニを胸に刻んで記憶します。
寂しがらず、この世の恨はすべて残して、安らかに逝ってください。
どうかそこで果たせなかった幸せを享受し、したかった勉強も思いっきりしてくれるよう祈ります。
ハルモニの冥福を祈ります。ハルモニが逝く道が寂しくないよう皆さんも祈ってください。
***ハルモニの人生***
-1921年 トンヨンで生まれる
-1940年 20歳の年に、網元で働いているところ強制的に拉致され、中国に連れて行かれ5年間「過酷な慰安婦」生活を強いられる
-1945年 南京から釜山へ汽車に乗って帰国した後、船に乗ってトンヨンに帰郷
-生計手段は工場・農作業・魚の行商など
-結婚はせず甥姪を育て一人で暮らす
-1993年 日本軍「慰安婦」被害者として政府に登録
-2009年5月23日夜11時30分ごろ 恨多い生涯を終える
*家族は報道を望まず。
5月28日、日本軍「慰安婦」被害者ユン・ドゥリハルモニが亡くなられました。(享年71歳)
故ユン・ドゥリハルモニは、1928年に釜山で生まれ、15歳の時に釜山派出所前を通った時に連行され、釜山ヨンドにある慰安所で「慰安婦」として苦しい日々を送らなければなりませんでした。
それこそ、家から近いところの慰安所にに閉じ込められなければならないという悲劇にあいました。
解放後、とても文無しでは帰れず、食堂で1年余り働き家に帰りましたが、困難な状況と慰安所生活によって心的・肉体的苦痛などで、再び辛い日々を送りました。
結局釜山を離れ、ソウルを経て鬱山(ウルサン)に落ち着いた後、これまで過ごしてきました。
ハルモニは生前に、「故郷は釜山だけど、慰安婦だった頃を思い出すから行きたくない」と話していました。人生をめちゃめちゃにし言い逃れをする日本に怒り、自分が被ったことを死んでも忘れないと言っていたハルモニは、日本政府の欺瞞的な「国民基金」を拒否し、真の謝罪と賠償を望んでいると叫びました。
これからは、全ての恨と荷を降ろして、安らかに休まれることを願います。
蔚山の東河(トンガン)病院の葬儀場で葬儀を行なって、29日地域の市民たちが追悼式を開き、翌日出棺式を行なった後、天安(チョナン)の望郷の丘で静に眠りにつきました。
(29日:追悼式、30日:葬儀)
***故ユン・ドゥリハルモニの生涯***
-1928年 釜山で生まれる
-1942年 釜山で日本軍「慰安婦」として連行され、釜山ヨンド第1慰安所で苦しみを味わう
-1945年 解放を迎える
-1986年 ウルサンに定着
-2009年5月28日永眠
現在生存している「慰安婦」被害者のハルモニは、91名になってしまいました。
台湾の元日本軍「慰安婦」被害を受けた阿媽が5月に入って2人、亡くなりました。
蘇寅嬌(Su Yen Jiao、1923年生)さんが5月13日、午後7時50分、お亡くなりになりました。享年86歳でした。 そのわずか1週間後、阿鳳阿媽が85歳で病逝いたしました。
おふたりとも、海南島へ食堂などの仕事があるといわれ、つれていかれました。
蘇寅嬌さんは1943年、阿鳳さんは1941年、海南島で場所はちがうところで被害を受けました。
阿嬌(蘇寅嬌さんの愛称)阿媽は、20歳の時、海南島へ連れて行かれ、妹の蔡桂英さん(1925年生まれ、2006年4月死去)とともに姉妹で「慰安婦」にさせられた人です。
同じ屋根の下で暮らしていた妹の蔡さんが亡くなったことを悲しみ、2~3ヶ月に1回の割合で行われているグループセラピーで、涙をうかべながら「妹のことを思えば今でも涙が出る」と発言し、他の阿媽たちに背中をさすられたり、抱きしめられたりしておりました。
細い身体で苦労が全身にしみこんでいるほど働きづくめでしたが、客家の女性は働き者だといわれるように、阿媽も苦労を当たり前のように自分一人の身に引き受けて家計を担っていました。
何度か入退院を繰り返しておりましたが、そのたびに奇跡のように元気になり、グループセラピーには欠かすことなく参加していました。
そして、とくに妹さんが亡くなってからは、「ここにくるとみんなに会えるからうれしい」と目をキラキラさせながら楽しそうに大きな声で笑ったりして過ごしておりました。
前回のグループセラピーがあった3月にも入院していましたが、今回も入・退院を繰り返していました。1度退院し、家族を安心させましたが、その2~3日後に再入院となり、5月13日~14日に行われたグループセラピーの2日目の早朝、婦援会のスタッフに阿媽死去の知らせがもたらされました。
最後のベッドで酸素マスクをしながらも残される家族の経済状態を心配し、苦労をいっぱい抱えたまま逝ってしまった阿嬌さんの姿を思い浮かべると悲しさがこみ上げてきます。
台湾のサバイバーは現在18人になってしまいました。その中でも毎回行われるグループセラピーに元気に参加する阿媽が段々少なくなってきています。
悲しみにくれてばかりはいられない、いま、できることをしなければならないと婦援会のスタッフたちは思いをあらたにしております。

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