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2009年7月27日月曜日
水曜デモinソウル
2009年7月2日木曜日
北千島にも軍の慰安所があった 過去言い繕ってはだめ 朝鮮半島から強制的に
北海道の方が、以下の内容の新聞記事を送って下さいました。
被害者の方の声だけでなく、加害者の声を聞くことは、とても大切だと思います。
それで、私が聞いた、日本兵の証言(話)を思い出しました。
私も以前、ある師団の戦友会に参加する機会がありました。
中国で、千人切りをしたこと、女性を強姦してその後殺したこと、妊婦も殺したことを私に話して下さった老人の無表情の顔、目つきが忘れられません。
そしてそれを聞いて、また別の方が“それは、俺はできなかった。女の人がいることろ(多分慰安所でしょう)があったから”といわれました。その慰安所は“上官が独り占めしていて好きなときに行けなかった。だから兵隊たちは、中国人に対して強姦や殺人を犯しても何も言われなかった、悪いことではなかった”と言われました。
また別の機会に、南京虐殺を行なった師団に参加していた方にも、お話を聞きました。南京に行くまでの道沿いにある村々はすべて全滅させて行ったそうです。“今、問題になってるやろ。あの時は、悪いことではなかった。中国人は、殺してもよかった。それが仕事やったから。上官に言われたら、仕事やから、しないといけなかったんだ”と言われました。
目の前の一兵卒に、加害責任を言っても仕方ありません。でも、加害の事実をもっと後世にきちんと伝えるべき責任はあるのではないでしょうか?悪いことをしたのだと、アジアの国々に謝罪できるよう当事者が我々に教えるべきではないでしょうか?町ですれ違う、隣に住んでいるおじいさんが加害の過去、戦争の体験を持ちながら、今の日本社会をつくってきたことを知ると、同胞として後世に生きている私たちが、私たちの手で、歴史の責任の解決をしていかねばならないと強く思います。
以下、北海道新聞の記事です。
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大竹三郎さん=87歳、札幌市在住
兵隊ばかりの北の島にも軍の慰安所があり、「朝鮮半島出身の若い女性が朝から晩まで、強制的に兵たちの相手をさせられていた」と、大竹三郎さん(87)=札幌市=は証言する。あからさまには話しにくい「性」が絡む従軍慰安婦問題。大竹さんは「苦しい思いをした人がいて、知る人も多い。過去を言い繕うことが、間違った道に進ませる」と口を開いた。
この慰安所は、一九四三年(昭和十八年)、北千島の幌筵(パラムシル)島にあった。外出許可が出て「慰安所許可証」が交付された。慰安所は軍の施設だった。
大竹さんは旧満州(現中国東北地方)、アッツ島、キスカ島と転戦。五年近い軍隊生活で死のふちをさ迷った。「生きている証しを、女性を抱くことで得たかったのかもしれない」と言う。宿舎で酒を飲み、一キロほど離れた慰安所を訪ねた。
バラックが二棟並び、奥が将校用、手前が下士官と兵隊用。長屋の二つの入り口には、兵が整然と列をなしていた。時間は一人三十分で、巻き脚半を取り、軍靴のひもをゆるめて順番を待った。
部屋にいた女性は、言葉などで朝鮮半島の出身と分かった。名は花子、十八歳と明かした。軍の売店で買ったアンパンを食べさせ、残りのパンを袋ごと与えると、女性は突然、布団をはねのけ、寝間着の前を開いた。
彼女は「見て」と性器を指し示した。そこは、裂けたような跡が、いく筋にもなって盛り上がり、無残な傷あととなっていた。酔いも好奇心も性欲も消し飛び、いたたまれなさと行き場のない怒りに襲われ、部屋を飛び出した。廊下に出てほかの部屋のドアを開け、やめさせようと大声で怒鳴り、戦友に抑えられた。
「少女のころ連れてこられ、いや応なしに日本兵の相手をさせられた。悲鳴とおえつをどれだけもらし、屈辱にまみれたことか」と話す大竹さんの顔が苦痛でゆがんだ。