水曜デモとは

日中戦争(十五年戦争)・アジア太平洋戦争中、日本軍は兵士たちの性的欲求を満たすため「慰安所」をつくり、植民地や占領地にいる数多くの女性たちを強制的に性奴隷としました。「慰安婦」とされた女性たちは、繰り返し性暴力と虐待を受けました。日本の敗戦により解放されたはずの被害女性たちは、日本軍兵士に無理やり性行為を強要され、辱められたことを誰にも言えずに長い間生きるしかありませんでした。しかし日本軍の関与はなかったという日本政府の対応に、90年代になって一人、二人と名乗りを上げ事実を話し始めました。それにより日本社会においてもやっと日本軍「慰安婦」の存在が知られるようになりました。 被害女性たちは日本政府に、真相究明、公式謝罪、国家賠償、責任者処罰などを求めて声を上げ始め、韓国では日本大使館前で1992年1月8日から毎週水曜日にデモが続けられてきています。 私たちは、すべての日本軍「慰安婦」問題の被害女性と連帯すべく第三水曜日に水曜デモを行います。

2009年7月27日月曜日

水曜デモinソウル

2009年7月22日(水) 第875回水曜集会 「劇団水曜日」主幹 演劇<セナの願い>公演 30分
在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇。
事前の雨の予報は見事に外れ、天気は晴れ。
蒸し暑い中、挺身隊問題対策協議会が主催する875回水曜集会は正午キッカリに始まりました。

想像していたより明るい、元気でノリのいい挨拶と「岩のように」の歌、尹美香代表のメッセージ、“18年間の集会で初めてのことがありました。日本大使館の窓が数分間開けられ、職員らしきひとがのぞいていました。”と。
私は、初めての参加ですので、“アー開いてるわ。”くらいにしか思ってなかったのですが、代表の言葉に“おおっ!”と、感激しました。そんなに「劇団水曜日」は有名なのか?!
いえいえ、多分、日食を見ていて、窓を閉め忘れたんだと思いますが、、、。

劇団の団長の挨拶と団員が紹介され、主人公のセナが子どもたちにいじめられるシーンから劇ははじまりました。
日本では今でも朝鮮人(在日コリアン)に対する差別意識は根強くその差別意識は残念なことに子どもたちの意識の中にも居座り続けています。そんな現実とハルモニたちの受けた屈辱の体験は半世紀以上経つ現在と繋がっています。

以下は、劇を観た友人の感想と報告です。

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劇は導入部の重苦しい雰囲気とは一変し、コミカルなミュージカル仕立てに・・・。
観劇していたハルモニを始め、多くの観客は突然の変貌に面食らい、目を白黒させながらも、湧き出る笑いがどよめいていた。
コミカルな動きとは裏腹に歌詞は ♪ どうして どう~して! 誰のものでもない地球・・・中略・・・愛と正義が平和をつくる みんなのものだよ この地球 ♪ と、しっかりとメッセージが込められていた。
続いて、右傾化する日本の今の現状がますます差別を助長させていることをそして戦争が「慰安婦」問題を今後も引き起こす原因であるある事を受けて、コミカルな踊りに乗せ、その裏で糸引くアメリカの存在を痛烈に批判していた。
ハルモニの体験を歌にし、「慰安婦」問題を訴えた。今までの興奮は一変、また重苦しい雰囲気が漂う。胸つまらせ、息苦しいほどの生々しい証言。
そしてハルモニは「二度とこんなことを繰り返させないために、みなさんに真実を知ってもらいたいと、わたしは今日ここに来ました。わたしが今日まで生きて来たのは、みなさんにこのことをお話しするためだったんだと思います。どうか、日本に住んでいる皆さんが、日本政府を動かしてください。」と日本の支援者に期待した。
日本で活動の成果が見えはじめた・・・。
そのキッカケが[宝塚市議会での日本軍「慰安婦」問題の解決を求める意見書可決]でした。
その後、各地での[意見書可決]の朗報が次々ともたらされたことを紹介。取り組み中の活動も紹介と続き、みんなでシュプレヒコールをした。
最後に♪アリランのメロディにあわせて全員で踊り、最後は全員手をつないで一列になり、お辞儀をして演劇は終演した。途中、ハルモニが感激して踊りに参加。大いに盛り上がった。
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以下に、韓国のマスコミの報道を添付します。
訳していただいた記事と写真です。

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[京郷新聞 2009-07-22 18:27] 「慰安婦の真実の伝播、放棄しない」 日本の劇団、挺対協の水曜集会で韓国語の演劇
写真 ▲ 日本の有名な「劇団水曜日」が、22日ソウル鍾路区の駐韓日本大使館前で開かれた従軍慰安婦[被害]ハルモニ水曜集会で公演している。(金キナム記者) 22 日昼12時、ソウルの鍾路区中学洞の駐韓日本大使館の前。ポリスラインの前に、空色の布で簡易演劇舞台が設けられた。劇が始まると、俳優5名が一人の女性 に向かって、「帰れ、朝鮮に帰れ」と叫んだ。黒い色のスカートと白いチョゴリを身につけた女性は、しくしく泣きながら、「アリラン」を歌った。 日本の「劇団水曜日」が、この日挺身隊問題対策協議会が主催した875回水曜集会の現場で、演劇<セナの願い>を公演した。在日同胞の女学生セナが、在日朝鮮人差別と「慰安婦」問題に怒りを感じて、解決していく過程を描いた演劇だ。 俳 優たちの韓国語は未熟だったが、演技は真剣だった。路上演劇は、30分余り行われ、俳優15名の額には汗の雫が溜まった。俳優たちは、演劇の最後に皆舞台 に出てきて、「金学順(キム・ハクスン)、裴奉奇(ペ・ポンギ)、姜徳景(カン・ドッキョン)…李順德(イ・スンドク)」と叫んだ。従軍「慰安婦」被害] ハルモニ31人の名前だ。 観客は、「慰安婦」[被害]ハルモニたちだった。車椅子に座ったハルモニたちは、真剣に演劇を観覧した。舞台からアリランが流れてくると、静かに歌いもした。 「 劇団 水曜日」は、2004年日本の兵庫県宝塚市で韓国伝統舞踊を公演した朝鮮高等学校の女学生たちに、一人の日本の女性が「朝鮮に帰れ」という差別的暴言をした事件を契機に創立された。 劇団の名前も水曜集会から取った。徳田幸博団長(66)は、「二月間猛練習して、今日の舞台に立った」、「韓国語を全く知らない俳優が半分ぐらいになるのに、皆熱心にセリフを覚えた」と語った。 劇団側は、公演後に発表した声明書を通して、「日本の地で、一人りでも多くの人たちに真実を伝えるよう、あきらめないで闘う」と明らかにした。彼らは、日本市民が集めた寄付約31万円(400万ウォン余り)を挺対協に伝達した。 
(カン・ビョン ハン記者)
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[聯合ニュース 2009-07-22 14:24] 第875回水曜デモ (ソウル=聯合ニュース) 朴ジホ記者= 22日の午後、ソウルの中学洞の日本大使館前で開かれた「日本軍『慰安婦』問題解決のための第875回水曜デモ」で、ハルモニたちが日本からきた劇団水曜日の公演を見守っている。

2009年7月2日木曜日

北千島にも軍の慰安所があった 過去言い繕ってはだめ 朝鮮半島から強制的に

北海道の方が、以下の内容の新聞記事を送って下さいました。

被害者の方の声だけでなく、加害者の声を聞くことは、とても大切だと思います。

それで、私が聞いた、日本兵の証言(話)を思い出しました。

私も以前、ある師団の戦友会に参加する機会がありました。

中国で、千人切りをしたこと、女性を強姦してその後殺したこと、妊婦も殺したことを私に話して下さった老人の無表情の顔、目つきが忘れられません。

そしてそれを聞いて、また別の方が“それは、俺はできなかった。女の人がいることろ(多分慰安所でしょう)があったから”といわれました。その慰安所は“上官が独り占めしていて好きなときに行けなかった。だから兵隊たちは、中国人に対して強姦や殺人を犯しても何も言われなかった、悪いことではなかった”と言われました。

また別の機会に、南京虐殺を行なった師団に参加していた方にも、お話を聞きました。南京に行くまでの道沿いにある村々はすべて全滅させて行ったそうです。“今、問題になってるやろ。あの時は、悪いことではなかった。中国人は、殺してもよかった。それが仕事やったから。上官に言われたら、仕事やから、しないといけなかったんだ”と言われました。

目の前の一兵卒に、加害責任を言っても仕方ありません。でも、加害の事実をもっと後世にきちんと伝えるべき責任はあるのではないでしょうか?悪いことをしたのだと、アジアの国々に謝罪できるよう当事者が我々に教えるべきではないでしょうか?町ですれ違う、隣に住んでいるおじいさんが加害の過去、戦争の体験を持ちながら、今の日本社会をつくってきたことを知ると、同胞として後世に生きている私たちが、私たちの手で、歴史の責任の解決をしていかねばならないと強く思います。

以下、北海道新聞の記事です。

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大竹三郎さん=87歳、札幌市在住

 兵隊ばかりの北の島にも軍の慰安所があり、「朝鮮半島出身の若い女性が朝から晩まで、強制的に兵たちの相手をさせられていた」と、大竹三郎さん(87)=札幌市=は証言する。あからさまには話しにくい「性」が絡む従軍慰安婦問題。大竹さんは「苦しい思いをした人がいて、知る人も多い。過去を言い繕うことが、間違った道に進ませる」と口を開いた。

 この慰安所は、一九四三年(昭和十八年)、北千島の幌筵(パラムシル)島にあった。外出許可が出て「慰安所許可証」が交付された。慰安所は軍の施設だった。

 大竹さんは旧満州(現中国東北地方)、アッツ島、キスカ島と転戦。五年近い軍隊生活で死のふちをさ迷った。「生きている証しを、女性を抱くことで得たかったのかもしれない」と言う。宿舎で酒を飲み、一キロほど離れた慰安所を訪ねた。

 バラックが二棟並び、奥が将校用、手前が下士官と兵隊用。長屋の二つの入り口には、兵が整然と列をなしていた。時間は一人三十分で、巻き脚半を取り、軍靴のひもをゆるめて順番を待った。

 部屋にいた女性は、言葉などで朝鮮半島の出身と分かった。名は花子、十八歳と明かした。軍の売店で買ったアンパンを食べさせ、残りのパンを袋ごと与えると、女性は突然、布団をはねのけ、寝間着の前を開いた。

 彼女は「見て」と性器を指し示した。そこは、裂けたような跡が、いく筋にもなって盛り上がり、無残な傷あととなっていた。酔いも好奇心も性欲も消し飛び、いたたまれなさと行き場のない怒りに襲われ、部屋を飛び出した。廊下に出てほかの部屋のドアを開け、やめさせようと大声で怒鳴り、戦友に抑えられた。

 「少女のころ連れてこられ、いや応なしに日本兵の相手をさせられた。悲鳴とおえつをどれだけもらし、屈辱にまみれたことか」と話す大竹さんの顔が苦痛でゆがんだ。

2005/06/02()  北海道新聞 戦禍の記憶